▲シンポジウムのパネリスト。右から2番目がベアテさん、左から2番目が鈴木。
こんにちは、鈴木邦男です。鈴木邦男と言っても、ルーフトップの読者は若い人がメインでしょうから、「えっ、誰これ?」という人が多いでしょう。また、僕のことを知っている人でも、最近の鈴木邦男はどうなってるんだ! 右の運動をやってたくせに、この頃は「自由な押し付け憲法のほうがまし」なんて不埒なことを言いやがって! 転向したのかお前は! そうかと思ったら、なに? 一番最近の本の題名は『天皇陛下の味方です』だって……一体どうなってるんだ、はっきりしろ!」なんて、各方面から叱られてたりしてます。
正直言って、自分でも自分が右なのか左なのか、よくわかりません。だからこの欄のタイトルは『右顧左眄』としてみました。この四字熟語、もしかしたら偉い政治家の先生でも読めないかもしれないので(断っておきますがA倍さんとかA生さんとか、特定の誰かのことを言っているわけではありません)、書いておきますと「うこさべん」と読みます。
意味は広辞苑によると「(右をふりむき、左をながし目で見る意)人の思惑など周囲の様子を窺ってばかりいて決断をためらうこと。左顧右眄。『いたずらに〜する』」と出ています。
そうか、俺は右と左の思惑を窺いながら決断ができない人なのか。ウーン、このタイトル、やめたくなったな……でも、みんなで考えて決まったことだから、俺の一存で変えるわけにもいかないし……あれ、これが右顧左眄そのものだ! じゃあいいや、これで行こう。名は体を表すだ。
不自由な自主憲法より、自由な押し付け憲法のほうがまし
ちなみに、上に書いた「自由な押し付け憲法云々(うんぬん)」の発言を正確に記すと「不自由な自主憲法より、自由な押し付け憲法のほうがまし」と言っているのです。
1回目から憲法論議も何ですが、僕が50年くらい前、早稲田の学生で、右の学生運動(あったんですよ)に勤しんでいた時、「昭和憲法は諸悪の根源!」と演説していました。世の中が、こんなに騒がしいのは、憲法が言論の自由を尊重しすぎるからで、天皇陛下が殺されて首が転がっているような不敬な小説が書かれたり、からかいの対象にしたりするのも、全部、新憲法のせい。
しかもその憲法自身が、進駐軍、アメリカを中心としたGHQによってつくらされた、押し付けられた憲法だ、と本気で考えていました。行き過ぎた自由も憲法のせい、この世の中が悪いのは憲法のせい。郵便ポストが赤いのも、電信柱が高いのも、それもこれも憲法のせい。
で、話は一気に飛びますが、今はそうは思っていません。第一、昭和憲法はGHQに一方的に押し付けられたものとは考えていません。GHQはまず、日本人に新しい憲法案を検討させました。憲法問題調査委員会がそれです。国務大臣・松本烝治という人が主管しました。でも、そこから出てきた試案は、天皇の統治権を記すなど、戦前の大日本帝国憲法(明治憲法)とほとんど変わらない内容でした。
マスコミなども、あまりに旧態依然の試案には批判的でした。日本の人々も、戦後の開放感の中では、少し違和感があるものだったかもしれません。
そこでGHQはこれを採用しないで、急遽、案をつくることになり、英語の原文がつくられました。その中には、戦争放棄など新憲法の骨子がほとんど入っていました。この辺の経緯をもって、右翼は新憲法を「押し付け憲法」と断定し、自主憲法の制定が、自分たちのレゾンデートルと化したのです。
なぜ大胆な憲法試案を日本人はつくれなかったのか
ところで、なぜ、日本人がつくった案は、戦前と変わらないものだったのでしょう? 長くそのことが疑問でしたが、シナリヲ作家のジェームス三木さんが書いた『憲法はまだか』を読んで、なるほどそういうことだったのかと、思わず膝を打ちました。
こう書いてありました。当時はGHQが日本の占領政策を担っていたわけですが、これが永久に続くわけではない。いずれ、GHQは解体して、それぞれの国に帰っていく。その時、あまりに斬新、あまりに民主的な憲法草案を提案していたとすると、巻き返しの波が来た時、バッシングの矢にさらされるのではないか……。そう考えたというのです。納得のいく説明です。この本は、いまは文庫本で出ていると思うので、ぜひ、興味のある人は読んでみてください。
24条の草案を書いたベアテさんに会った
結果的に、新憲法(昭和憲法)は素晴らしいものになったと、いま、僕は考えています。
じつは、この憲法の24条は「家族生活における個人の尊厳と両性の平等」を内容としたものです。LGBTの権利が尊重されるようになったいまでこそ、条文の中の「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない」の冒頭が問題視されていますが、戦争直後の日本では、結婚は家や親の意向が大きく反映するものだったので、結婚当事者の2人の合意にだけに基づく、という考え方はとても新鮮に響いたことでしょう。
この条文の原案をつくったのは、わずか22歳の、ベアテ・シロタ・ゴードンという女性でした。この人は幼少期に日本で育った経験があり、日本の女性が置かれていた地位・環境について見聞きしていました。なので、上のような原文をつくったわけです。
このベアテ・シロタ・ゴードンさんに、僕は会ったことがあるのです。2007年4月、ニューヨークで開かれた日本の憲法についてのパネルディスカッションで、パネラーとして同席したのです。以下のようなタイトルのものでした。
アジアソサエティアトミックサンシャインpresents
パネル・ディスカッション
『平和憲法は時代遅れか? 再軍備を検討する日本』
日程:2007年4月25日水曜日
場所:ニューヨーク、アジア・ソサエティー
パネリストは、次のように紹介されています。
ベアテ・シロタ・ゴードン(日本国憲法起草メンバー、ザ・アジア・ソサエティー・パフォーミング・アート・フィルム・レクチャー部門元ディレクター)
鈴木邦男(政治批評家、新右翼団体「一水会」創設者)
ジャン・ユンカーマン(ドキュメンタリー映画作家、映画『日本国憲法』監督)
こんな素晴らしいイベントに僕を呼んでくれたのは、渡辺真也という青年でした。美術展などを企画するキュレーターですが、世界を股にかけて活躍していて、最近もユーラシア大陸をテーマとした『ソウルオデッセイ〜ユーラシアを探して Soul Odyssey In Search of Eurasia』という記録映画を発表しました。これはドイツを出発点に、ユーラシア大陸にある13の国を陸路で横断して日本に来るまでを撮ったもので、とても興味深いものです。彼についてはいずれきちんと書く機会を設けることとして、話を元に戻します。
▲シンポジウムを企画した渡辺真也さん(右端)とパネリストのジャン・ユンカーマンさん。
一水会の主な主張は「対米自立」
上で「GHQは解体して、それぞれの国に帰っていくという考え方があった」と書きましたが、その後の経過を見ると、GHQこそなくなりましたが、いまの日本は日米安保条約の下、アメリカの世界戦略に沿った政策が続いている、余儀なくされている、と、思っています。
私が創設した一水会は、1990年に、木村三浩氏が跡を継ぎ、国際的な存在感(特にロシアやかつてソ連邦を構成していた国々)も発揮した立派な組織になっていますが、この一水会の一番大きな主張が、「対米自立」です。
そろそろ紙幅が尽きました。こういうことについても、少しずつ書いていくことにします。
構成:椎野礼仁(書籍編集者)