新宿ロフトから下北沢シェルターへ
なんとも世紀末の1999年、日本中が愚かしくも踊ったバブルやバンドブームが完全に終焉した時代。「新宿ロフト」(1976年オープン)は、都市再開発の名の下で、バブルに踊ったビルオーナーから追い出しを食らってしまった。当時、「新宿ロフト」を預けていた友人から「どうしましょう?」と連絡があり、私は移住していたカリブ海の小国・ドミニカ共和国から急いで帰国し、立ち退き〜再入居の交渉に入った。ビル側は、現在のビルを建て替えたいと言ってきた。勿論、「再入居」が前提の話だった。
当時、東京のライブハウスシーンは、日清食品が経営する評判のいいライブハウス「パワーステーション」が全盛の時代だった。私としても、もし新しいビルで、自分たちが自由に設計したライブ空間「新宿ロフト」が出来るなら、「パワーステ—ション」によるライブハウス業界の一辺倒支配を崩せるチャンスだ、と思っていた。ビルオーナーとの再入居交渉は順調に進み、「新宿ロフト」はビルを建て替えるまでの数年間、下北沢に場所を移転することにした。しかし、下北沢には1982年に当時の店長へ暖簾分けをした「下北沢ロフト」が今も経営されており、同じ名を使うわけにはいかない。私たちは「新宿ロフト」の避難場所ということで、名前を「下北沢シェルター」と決めた。結局、新しいビルの建設計画は、オーナーが不動産投資の失敗から破産、ビル自体が競売にかけられ頓挫してしまった。なんとも酷い時代だった。
そして、その半年後、なぜか「パワーステ—ション」が閉鎖されてしまったのも不思議であった。
下北沢ロフトの誕生からシェルターに
1975年(「新宿ロフト」が出来る1年前)にかの有名な「下北沢ロフト」は誕生した。当時の下北沢はそれなりに田舎町だったが、新宿・渋谷に近く、大勢の若者が下宿していた。本多一夫さんが経営する芝居小屋とピンクサロン、数軒のジャズ喫茶があった。今の下北の賑わいから比べると、寂れた町だった。
そんな町に、私たちは日本で生まれたロック音楽を持ちこんだのだ。中央線文化(西荻、荻窪)からやって来たロフトは、下北沢の若者から熱烈歓迎された。あのサザンオールスターズが、「下北沢ロフト」の “店員バンド” 第一号だったのも、私たちの自慢の種だ。1975年の「下北沢ロフト」誕生は、翌年1976年の「新宿ロフト」誕生と合わせて、まさに日本のロックの夜明けだった。1976年は、日本のロックにとって画期的な年だ。本格的ライブハウス「新宿ロフト」がオープンし、それまで音楽の主流だった演歌や歌謡曲を駆逐して、日本発のロックが市民権を獲得したのだ。サブカルチャーがメインカルチャーとなった。その源流こそ、怪しげな巻き舌で歌うあの伝説のグループ「はっぴいえんど」だったのだ。
かくして下北沢シェルターは生まれた
1991年に誕生した「下北沢シェルター」。あれから25年の年月が過ぎた。東京に一軒だけ残した「新宿ロフト」の再建に、「下北沢シェルター」の存在は欠かせなかった。まさに、名の通り「避難場所」だった。
当時の店長は、「新宿ロフトには負けたくない」とばかりに、ひと味違ったラインナップ…というか、新しくてまだみんなに注目されていない「オルタナ」に標準を合わせ、「小さな箱でも決してイメージダウンにならない」ラインナップを作り上げた。名もなく集客も少なかったバンドでも、人気が出て大きくなると、小さな小屋にはだんだん出演しなくなる。そんなライブハウスの悲しい宿命に挑戦したのだ。それには「まだ日の当たっていないシーンや、マイナーなバンドを大切に育て上げることしかない」と確信したのだ。それこそが、新しい音楽を創造する基点だった。それは、当時のロッカーの出世階段である「巷のライブハウス〜渋谷公会堂〜日本武道館」という流れに一石を投じた形となった。
テーマは「グランジ」だったらしい。まさに「メジャークソ食らえ!」だったのだろう。
当然、初めはお客さんは入らなかったが、数年後にはその手の音楽が圧倒的に伸びていった。信じる音と、これからのミュージシャンたちを守り抜くことが合い言葉になった。こういった数々の挑戦があり、悪しき・ノルマ制を断固はねのけ、ライブ後にお客さんを巻き込んだ「打ち上げ」にも心を砕き、表現者とのコミュニケーションを計り続けた。
そして…だから今も、その伝統に支えられ、「下北沢シェルター」は輝き続けていると思うのだ。
71のオヤジが久しぶりにロックを堪能
2月のロフトラジオのゲストに、今話題のシアターブルック・佐藤タイジを招請した。バンドは今、相当、評判がいいようだ。だが私は、もう何十年もシアターブルックを見ていない。これでは失礼にあたると思い、スケジュールを調べ、渋谷クアトロでのライブに参戦してみた。対バンはトライセラトップスだ。トライセラは3人編成だったが、いやはや両者ともファンキーなギターを演奏して、いわゆる正当派ロックをやっていた。なんとも最後のフィナーレは両バンド全員(ツインリードギター・ツインドラムス・ツインベース、そしてキーボードの演奏は圧巻だった)が登場。両バンドとも、完成された内容だった。このイベントに来られたお客さんは、実にラッキーだったに違いない。私も思わず、サウンドに合わせて足踏みをしていたくらいだから。ここまで円熟し、完成されたシアターブルックは、これからどんな境地に挑戦するのだろうと気になった。これはトライセラと共に長く見続けるしかないな、と思った一夜だった。
もう満開の梅の木もある。この公園の梅は見応えがあって香りもいい。
春一番・梅の花を見る・府中郷土の森公園
全国的に快晴の日曜日。朝から冬の光がまぶしく、カーテン越しに鋭く差し込んできた。勢いよく布団を跳ね上げ、「今日は陽をたくさん浴びよう!」と思った。
新聞を見ると、昨日から「府中郷土の森の梅まつり」が始まったとある。
「ふむ、よし、梅か? 今日は断固、梅を見よう」と思った。京王線の分倍河原駅で降り、鎌倉街道を30分近く歩き、多摩川沿いの公園に向かう。多摩川の流れがキラキラしている。ここだけは春爛漫の風景だった。
いやはや、この奥深き武蔵野で、早咲きの梅が甘い香りをまき散らしていた。枝垂れ梅、紅梅、ロウ梅、木の横に母が…。奥多摩の山々の上に、富士がそびえている。
鶯の声はまだ。多摩川の清水が流れ込む。公園内で行われている数々の催し物には、ひな飾り、梅を見ながらの茶道、武蔵野が生んだ詩人・村野四郎の作品展示などがあった。帰り際には、入り口に併設してあったプラネタリウムを堪能。久しぶりに宇宙を観察。広大な宇宙と富士山特集、素晴らしい日本の原風景だった。
「自分とは何か?」「死とは・生とは・生命とは何か?」そして数々の善悪。今さらながら「生きる意味」を問い直す。春の心地よさを浴びる71歳。
梅を見ながら「茶室」での一服。素晴らしい。
我が家には4匹の猫がいて、この2匹は捨てられた猫。テル(12歳・右)マロ(11歳・左)