最近、古いミュージシャンの友人と、メールでレコーディングについて雑談をしていた。私が「最近主流の、データのやりとりに終始するような方法がどうも好きではない」と伝えると、最近の音楽シーンに詳しい彼は、以下のように返してきたので、驚愕したのだ。
「もう、すでにバンドが集まって音楽を作るような方法を取るミュージシャンはほとんどいないし、しかも若ければ若いほどその傾向は強いです。音楽を取り巻く制作のスキームはこの10年くらいで劇的に変わっちゃいました。もうミュージシャンは以前のスタイルで制作をすることはないでしょう。今や、CDを出したりライブをやるのが格好悪いという風潮すら出てきました」
にわかに信じがたかった。バンドの構成メンバーが「集まらなくなって」しまったら、それはもうバンドではないのではないか。いや、ここは集まらなくてもバンドだとしよう。集まらないバンドがあってもいい。この際、そんな風にはまったく思っていないが、集まるバンドの方が特殊なのだ、としてもいい。
例え少数派だとしても、そのやり方が物理的に可能である以上、私は、たいした意味がなくても、集まれる状況下にあるならばなにかと集まるようなバンドのメンバーでありたい。集まって、ギターの絵を描いてヘラヘラ笑ってるだけでもよいと思うのだ。コミュニケーションの多様性が、ひいては出音(でおと)の多様性に繋がると、私は信じる。
彼は続けた。「貴方の言うような音楽作りが自分も好きだけど、多くのミュージシャンは同意しないんじゃないかと思う。で、それが可能なミュージシャンを探すのも無理だと思います。よほどヒマなヤツを探してくればできるだろうけど、そんなヤツは誰も使いたくないでしょう」
それが可能なミュージシャンを探すのは無理なのか? それが可能なミュージシャンはヒマなミュージシャンとされてしまうのか? 疑問は募るばかりなのだった。
▲すべてはネットを通じたヴァーチャルなやりとり、コミュニケート不全の音楽なんて果たして面白いのだろうか?