始まりは友達が欲しかった
── 純烈がデビューして3ヶ月が立ちましたが、活動は順調ですか?
小田井:活動自体は順調です。最初の1〜2ヶ月はスタートダッシュでかっ飛ばしてきましたけど、今は僕も白川(裕二郎)くんも舞台があるので、純烈としては出来ることをやるというスタイルになってます。
── デビューして、周りの環境が変わったりしましたか?
小田井:「テレビで見たよ」とは言われるようになりましたけど、まだ純烈を企画モノだと思っている人がいて、「本気でやってるの?」と聞かれます。これまでのインタビューでもみんなが言っていたと思いますけど、純烈は企画モノとしてやってるつもりは全くないんです。ただ、僕らがメディアに出る時に、元特撮俳優がムード歌謡歌手に変身というコピーが付いて、余計に企画モノだと思われてしまっているんですけど。
── メンバーが揃い過ぎてるところはありますよね。
小田井:結果そうなっただけなんですけどね。全員本気でやっていますよ。最近は俳優の活動を知らない人もイベントに来てくれるようになって、最初の頃はイベントに昔からのファンの方が来てくれているというのもわかっていたので変身ポーズをやっていましたけど、純烈で初めて知ってくれた人たちからしたら、「この人たちは何をやってるの?」という状態になりますからね(笑)。そろそろ、変身ポーズも出来なくなるんじゃないのかなと思ってます。うちのメンバーは、特撮番組に出演させて頂いたのはありがたいと思っていますし、伏せたい気持ちは全くないですから。
── 特撮だったということ以外でも、みなさん開けっ広げの部分って多くないですか?
小田井:それは年齢的なものも大きいと思います。酒井くんが結婚していることだって今さら隠したところで知ってるファンの人もいっぱいいるし、僕は今年39歳になったんですけど、この年齢なら結婚したり子供がいてもおかしくない年齢でしょって思うんですよ。僕は独身ですけど。イケメンムード歌謡コーラスグループということにはなっていますが、外見じゃなくて人間としてのイケメンで良いんちゃうかなって。
── 年齢を重ねていくと、外見よりも中身のイケメン度のほうが重要になってきますからね。
小田井:だから、結婚してるしてないは関係ないかなって思いますしね。友井くんが離婚してることだって人生経験のひとつだし、それで彼が頑張ってる姿は美しいでしょって。
── 小田井さんは、一度就職されていたんですよね。
小田井:28歳までサラリーマンでした。大学を出てすぐに就職して、赴任地の仙台で5年働いてモデルになったんですけど、4年は会社にはナイショでモデルをやってました。でも実は芸能界に興味がなかったんですよ。
── なぜモデルになったんですか?
小田井:友達が欲しかったんです。兵庫の出身なんですけど、就職したらすぐに仙台に配属になって、その会社の10年ぶりぐらいの新人だったので、一番近い先輩でも10個ぐらい離れていて結婚して子供がいたり、マイカー通勤の人が多いから飲みに行く事もできない。就職したばかりの時は覚える事があって気にならなかったんですけど、会社に慣れてきた時に友達が欲しいなって思ったんです。それで当時の浅はかな考えで、まずは習い事をしようと。お稽古ごとをやればそこに集まる生徒さんで友達ができるんちゃうかって、タウンページを調べたんですけどピンと来るものがなくて、学生の時に友達から「背が高いからモデルとかやればいいのに」と言われていた事を思い出したんです。習い事に月謝を払うよりは、お金をもらいながら友達を作れたほうがいいと思い、モデルになろうと決めたんですが、モデルが仕事になったら会社にばれるとマズイなと。でも、仕事なんてそんなに来ないと思っていたんです。モデルクラブに所属することで、なんらかの飲み会を期待していただけですし。でも、最初のモデル事務所は半年経たずに辞めたんです。
── 半年で?
小田井:仕事がひとつも来なくて、友達ができるどころの話じゃなくて…。次のモデル事務所はマネージャーさんと仲良くなって、本業に差し支えるぐらい仕事をくれたんです。地方なので、ローカルCMとかチラシとかブライダルショーとか。結局会社にモデルをやっていることを知られてしまったんですが、テレビに出てるおかげで営業成績が良かったんですよ。だから、普段の仕事に差し支えのないように、と言われて何とかなりましたけど。
モデルから役者、そして純烈へ
── どれぐらいのペースでモデルの仕事をしていたんですか?
小田井:週1ペースですね。当時の仙台のモデルはオーディションを受けるのではなく、マネージャーさんに気に入ってもられば仕事がどんどんもらえたんです。現場に遅刻する若いモデルが多い中で、僕は就職してるから最低限のルールは守れるし、挨拶もちゃんとするし、それもあって仕事を頂き、共演のモデルさんとも知り合えたし、国分町という有名な歓楽街にも友達がいっぱいできて目的は達成したんです。会社とは3年仙台で働いたら関西に戻してあげると言われていたんですけど、赴任して3年目に阪神大震災があって帰れなくなってしまい、支店長からは「あと2年我慢してくれ」と言われて2年働いたんですけど、支店長が転勤して関西に戻る話もうやむやになり、もはや会社を辞めるしか西に帰る方法がなくなっていたんです。でも、30歳までは好きなことをしたいと思っていたので、当時仲良くしていたカメラマンの人に東京のモデル事務所を紹介してもらったんですけど、28歳でモデルを始める人なんていないから仕事も偏るんですよ。僕はGainerっていう雑誌でモデルをやらせて頂きましたけど、30歳になると今度は仕事が減ってくるんです。で、もうええかなと、29歳の11月ぐらいに実家に「関西帰るわー」って電話したんですけど、その数週間後に夏に受けていた仮面ライダー(※1)のオーディションに受かりましたっていう連絡が来て、また実家に電話して「仮面ライダーをやることになったから、1年は役者としてやってみるわ」って。30歳からは役者です。
── 役者の経験はあったんですか?
小田井:ないです。仮面ライダーのオーディションも、事務所から「東映さんから仮面ライダーオーディションのFAXが来ているんだけどどうする? 書類出しておく?」って。特に僕あてに来たものではなく、でも仮面ライダー好きだから出しておいてって感じだったので、三次審査まで通過して「あれ?」って思う瞬間はありましたけど、当時仮面ライダーをやる人は20代前半の人が多かったから、受かるわけないだろって思っていたんです。
── 1年間仮面ライダーをやって、その後は俳優さんとして活躍されて。
小田井:ライダーが終わって役者を辞めるという選択もありましたけど、ドラマや舞台の仕事を頂いたので、仕事があるうちはやろうって。でも、35歳を超えたぐらいから危機感を覚え始めたんです。食えなかったわけではないですけど、このままこの世界で良いのかなって。役者を続けることに自信があったわけでもないですし、年をとるにつれて、これから先も役者で食っていけるものなんだろうかって不安になって。ただ、今までの話でわかると思いますけど、こうなりたいって思ってここまで来たわけではないんです。最終的な決断は自分でくだしてますけど、目の前に素材が置かれた時に箸を付けますか? 付けませんか? という選択で来ているんだと思う。自分で望んでやったのは、友達を作りたいって言う理由ではあったけどモデルだけ。それ以外は結果そうなったみたいなところがあって。
── 純烈が結成される前の酒井さん、白川さん、小田井さんの3人で構成された「東京ダンディ(仮)」時代の映像を拝見しましたが、PV撮影の時もわからないけど入って来ちゃった感がありましたよね。
小田井:本当にそうです。酒井くんから純烈の前身である「東京ダンディ(仮)」に誘われて簡単な意図を聞いてましたが、舞台の本番をやっていたらPVを録るから明日来てって連絡があって…。歌も知らないし、レッスンは一度もやってないし、不安はありましたよ。だから、PV撮影の時は「東京ダンディ(仮)」に対して半信半疑だったし、歌詞も覚えて来てないし、事務所もこいつやる気あるのかなって思ってただろうし。
── よくここまで続きましたね。
小田井:その後に、答え合わせ的なことを順番にやっていったんです。不満に思っていた事もディスカッションしていくうちになるほどってなったし、結果自分の中で納得できる方向性の趣旨だったから続けましょうってなっただけで。35歳を過ぎてからも、毎年舞台に出演させて頂いてましたけど、そろそろ次のステップやなと思っている時だったんです。歌自体は好きか嫌いかで言ったら好きだし、演じることも好きですけど感覚的に歌の方が自分には向いているのかなと思っていたんです。だから、やらせてくれるんならやりたいと思って、純烈に入ったんです。
── 何もかもチャレンジしたいと。
小田井:純烈で歌をやることは、モデルや役者の経験、もしかしたらサラリーマン時代の経験も活きると思っているんです。ジャンルもムード歌謡だったので、一部でお芝居をして、二部で歌謡ショーみたいな興行もできるんじゃないかと。これが新しいことではないですけど、歌しかやりませんということじゃなくて、おもしろい要素をいっぱい含んだものを考えていたら、俺らならやれるんちゃうかなって。それが最初の段階でイメージできたから、続けようって今に至ってます。
── 今のメンバーは役者さんが4人もいらっしゃいますからね。
小田井:2人はお芝居の経験がないですけど、2人が出来ないところは出来る人たちにサポートしてもらえばいいんです。足りないところは補って、努力してなんとかなるものは努力する。そういう発想。
── これまでの話を聞いていると、小田井さんって根詰めて考えることがあまりなさそうですね。
小田井:ニュアンスで生きてますから。そうしないとアイディアが浮かばないんです。一生懸命悩んでも、一周して戻ってくるだけ。最初に目標設定するよりも、サイコロを振って6が出たからどうしようという進め方の方がポジティブなんです。もともと自分が舵をとるタイプではなくて、純烈で言えばリーダーの酒井くんや事務所が「こういう方向性でやりましょう」と言ったことに対して、アイディアを出すのが僕の立ち位置だと思っています。学校で言えば学級委員がいて、僕は副委員長なんです。その方が自分も活きるというのが一番よくわかっているので。
本当は人前に出るのは苦手
── ところで、10月21日からは舞台『ジッパー』が始まりますが、どんな舞台になりそうなんですか?
小田井:作・演出をしている浅沼晋太郎くんの劇団が2003年にやった舞台の再演で、デパートの屋上でヒーローショーをやってる人たちの舞台裏の話。完全にシチュエーションコメディーなんですけど、お笑いだけじゃなくて、ホロッとするもあって最終的には良い話だったなってなると思います。
── チケットほぼ完売なんですよね。舞台も純烈も、お客さんの反応がすぐに返ってくるからやみつきになるところってあるんですか?
小田井:やみつきというよりは、本来歌でも舞台でも人前に出るのは苦手なんです。
── ん?
小田井:緊張するし、アガるし、やりたくないんです(笑)。矛盾してるでしょ?
── はい(笑)。
小田井:舞台もやると楽しいんですけど、稽古の始まりが近づいてくると嫌やなって思う。稽古することが嫌なわけではなくて、稽古場に行くのが嫌で(苦笑)。歌も基本は緊張するからやりたくないっていつも思いますけど、それを何かが越すんでしょうね。矛盾していて、それが何かは説明できないんですけど。あと、「涼平さんって良く喋りますね」って言われますけど、基本的に人見知りなので喋ることとかも嫌なんです(苦笑)。
── 何が奮い立たすんでしょうね。
小田井:人見知りだからこそ、頑張ってしまうんです。しゃべらなあかん! って。
── サービス精神が旺盛なんじゃないですか?
小田井:良く言うとそうですけど、本当は人とあまり接したくない(笑)。
── そうすると、なぜステージに立ってるんでしょう。
小田井:謎でしょ。昔は常に友達といないとダメだったけど、赴任先の仙台で1人でいる事にも慣れてしまって。
── 部屋で1人で何してます?
小田井:ボーッとしてます。クラブにも行かなくなりましたし、飲みに出掛けることもとんと減ってしまいましたし。家にいる時は同じDVDをリピートにして何回も見たり、絵を描いたり、楽器の練習したり。
── 結婚願望はあるんですか?
小田井:願望はありますよ。でも、新しいことをやり始めたところだから、今結婚したら守りに入ってしまうというか、発想がつまらないものになりそうな気がするんです。早く結婚せんとなって思いますけど。
── 今は舞台も純烈もありますからね。どちらもうまく今後の活動に繋がると良いですね。
小田井:今も、歌で僕らのことを知って、今度初めてお芝居見に行きますと言ってくれる人もいるんですよ。そうやってうまく繋がったら、僕らが役者をやる意味も、歌をやる意味もあると思います。でも、歌も役者も6人で両立させるって難しいんですよね。常に一緒に仕事をしていて、その中でやりくりする分には可能なんですけど、それぞれ仕事が入りますから。だから僕らも役者である以上芝居をやりたいというフラストレーションを埋めるためには、お芝居も歌謡ショーもある興行を自分らで組みたいんですよ。今はこれが一番の目標です。それと、聴いても見ても楽しいというのが純烈の武器だと思っていて、曲だけが良ければ良いのも違うし、周りからイケメンと呼ばれていれば良いわけでもないし、それだけでは歌の世界では通用しない。それはうまくバランスを取って、大先輩の方々と共演する時も遜色なく横並びのゲストとして歌えるようにならなければならないですけど、希望はその方々よりも一個上に行きたいなと言うのはあります。それは早ければ早いほど。年を取るばかりなので(苦笑)。