どんも! 先月まで城について書きまくってましたが、今月からは心機一転、てほどでもないすけど、もう少し歴史全般に書き書きを拡げていきましょう。といっても私の好きな歴史の時期は偏っているので、戦国時代、幕末から昭和20年の太平洋戦争が終わった時までのことについてが大部分かと思います。ほんでそん中でも「あの有名な事件、出来事!」というよりは、その有名な出来事の裏で忘れられていたり、隠れてしまっている、まさに「節穴」的なやつにスポットを当てるのをザックリ連載のテーマにしたいと思います!
気になる第1回目は、あの「桜田門外の変」にズームイン!
時は1860年3月3日の江戸に大雪が降った日、江戸幕府の大老(今でいう総理大臣となるでしょうか)、彦根藩主・井伊直弼の行列が江戸城桜田門に入ろうとした時、水戸脱藩浪士たち16人の実行犯に襲撃され、白昼堂々と殺害され首を取られたあの事件です。で、この有名な事件で忘れ去られた歴史、それは襲った側と襲われた側のその後です。
まず襲った側。水戸藩に迷惑をかけないようにと脱藩して事件を実行した襲撃犯たち。井伊直弼を討ち取るという目的を果たして首を持って現場を去った1人(唯一の薩摩脱藩浪士)は途中追っかけてきた彦根藩士に斬りつけられ頭部に深手を負い、しばらくして切腹。なかなか死にきれないため「切腹には水飲むと早く死ねるよ!」という当時の切腹あるあるを参考に、近くの雪を口にかっ込んだらしい(この時追っかけてきた井伊直弼の小姓は襲撃時に気絶していたが目を覚まし、主人の首がない! と気づき必死に追いかけ一太刀浴びせたが、自身も他の水戸藩士に斬り伏せられた)。
実行犯で襲撃時に彦根藩士に斬られて即死した者1名。負傷して自刃した者4名。8名は自訴(犯行声明みたいなものかな)して後に斬首。3名は逃走、1人捕まって斬首、明治まで生き延びたのは2名のみ。襲撃側は死を覚悟しての行動だからまぁわかると。
地獄なのは襲撃された側の彦根藩士たち。60人くらいの行列だったみたいす。でも事件当日、季節外れの大雪だったため刀の柄が濡れないように柄袋をして紐で縛ってたんすよ。だから急な襲撃に即座に刀が抜けない。右往左往している間にがんがん斬られる。井伊直弼以外に8人死亡(4人が即死、4人が重傷から後死亡)、5人が重軽傷。事件は10分前後の短時間、何とか刀を抜いて応戦したらしいですが、現場には耳たぶや指、腕などが散乱してたらしいです。
ほんで事件後。藩からその日の生き残りに処罰が下ります。生き残り=主人を守れなかった者たち。ということで傷を負った者は切腹。無傷の者は戦ってないってことで斬首、並びに家名断絶。
こ、こえーっす…。武士こえーっす…。しかも切腹は武士の名誉。武士が斬首ってことは、武士として死なせてもらえない、武士以下としての死。
き、きついわ…。
彦根藩と水戸藩の確執はそりゃすごいもんです。元を辿れば井伊直弼の安政の大獄によって不満をためていた水戸藩。藩主を白昼殺され、その行列の供が極刑にあった彦根藩。両者が和解して親善都市の提携をしたのは1968年、事件から実に108年後のことなんですねぇ。
ハイ! てな感じでバンドトーク一切なし、今後も歴史のふし穴を探っていきたいと思います! ふし穴トークをどうぞよろしく!
挿絵:西 のぼる 協力:新潮社