五月です。
皆さん相変わらず五月病ですか? 私? 私は毎日五月病ですよ。
最近、思うのです。昔は人生五十年と言われ、となると私は人生半分以上生きてしまった。つまりもうすぐ死ぬ。しかし医療や化学は発達し、今では百年も夢じゃないような現代。
果たして百年も生きたいか?
私の答えは「No」です。
いや百年も生きたくないでしょ、普通に考えて。だって百年間今のままの容姿を保っていられるわけでもなく、健康である保証もなく、周りにいる大切な人たちがどんどん先立ってしまったら自分一人じゃん。
と、ここまで考えて思った。
わたし今も一人じゃないです?
そうだ。私は今も一人だ。厳密に言うと一人ではなく愛する猫二匹と一緒に暮らしているし、家族も存命、友人と呼べる人も少ないけれどいる。そして一緒に仕事をしているメンバーやスタッフさんはたくさんいる。何より音楽活動を応援してくれているファンの皆様がたくさんいる、なのにどうして一人だと思うのだろう。
曲を作っているとき、ライブが終わって帰宅したとき、音楽の何かをやっているとき、それに関わらず誰といても何処にいても「なんとなく寂しい」という状態がずっと続いている。
この感情はいったい何なのだろう。物心ついたときからこういう「漠然とした不安」のような寂しさがずっとそばにあって、それから解放されたことが一度もないように感じている。特にここ数年はそれが一番高まっていて、「もう今死んでも誰も悲しまないのでは...」と思うくらいにはいつも寂しいと思っている。
だからと言って誰かに会ったり何処かへ行ったり何か楽しい(と思えるような)ことをやっても一瞬は違う気分になれるが気持ちは晴れは持続しないし、もうこれはこういう性格なのだろうと最近では諦め始めています。
今好きな人も特にいないし、というかずっといないし、人の気持ちなんていつかは変わるし、熱中できるものは音楽というものが常にあるけど、楽しいばかりではなく自分自身の未熟さや不甲斐なさに毎日毎日落ち込むし、それでも少し振り返ってみたときに「成長したかな」と思える変化というものがあって、ただそれだけのために生きているのでは...と思えてならないのです。
昔、友人が、自分自身が生きているという証明ができるものは科学的に解明されていないという話をしていました。だから自分はこの世界がバーチャルだと思っているとも言っていました。それを聞いてものすごく腑に落ちた気持ちになって、確かに今生きているかわかんなければ死んでいるのと同じだよなぁと思い、なんとなく救われた気持ちになりました。人生は一度きりだとよく言われるし、もし一度きりなら自分の心のままにやりたいことを選択していきたいし、実際それを選択して苦しんだりしてもそれはそれで良かったといつか思える日が来るのかな? って。
この漠然とした寂しさに答えはなく、おそらく答えが見つかることもないと思う。科学や医療が今以上に発達したら今の姿のままで百歳まで生きるのも可能かもしれない。でもそこまでして見た目の若さに固執するつもりもなく、大切な人たちが先立ってしまったらむしろ一緒に連れていってほしいなと思うから、自分の意志で人生を終わらせるスイッチのようなものが早く開発されないかなぁ。そしてそのスイッチを押すころには心から笑える場所が見つかるといいなぁ。私にもいつか心が燃えるように、大切だと思える人が現れるのかなぁ。猫以外で。