私は私の名前をとても気に入っています。「ようこ」という名前はありふれてはいますが呼びやすいし、外国人でもすぐに発音できますし、同じ「ようこ」でも、私の「容子」という漢字の女の子に出会うことは滅多になかったのでそういう意味でも特別に感じていたし、何より自分の顔に似合った名前のように思っているからです。
名前というものは自分自身や環境と同じく、自分で選べないし望んだものになるとは限りません。私のように自分で自分の本名を気に入っているケースは稀かもしれないと思っています。中には大人になってから改名をする人もいるでしょうし、表現活動をしている人は芸名を付ける人も多いです。
近年では子どもに複雑な漢字を付けて、一目見て読めない名前も多くなったと話題に上がったりしています。私は名付けられた本人がその名前を気に入ればどんな名前でも良いのでは、と特に否定も肯定もしていないような考えではありますが、一生自分自身に付いて回るモノなので非常に繊細な問題だと感じています。
そんな名前について考える時、必ず思い出すエピソードがあります。
幼稚園から中学校まで同級生で、ご近所に住んでいた男子のN君。小学校の高学年に上がるまでは毎日のように公園で遊んでいたお友達の一人でした。高学年になるにつれこじらせまくった自意識のお蔭で少しぎこちなくなってしまい、中学に入ってからは私が学校に行かなくなったので会う機会も減ってしまいましたが、小学校低学年の頃にN君が私に話してくれたことは、子ども心に衝撃で今でも考えさせられる話です。
どういうシチュエーションだったかは忘れましたが、N君と二人で遊んでいた時のこと。
特にすることもなくなって、なんとなく黙っている時間の時にN君がぽつりと話し始めました。
「僕、Nっていう名前やん?」
「うん」
「浜崎は自分の名前の由来とか親に聞いたことある?」
「ゆらいって何?」
「なんで自分の名前を付けたのかとか、そういうこと」
「知らないけど、私、自分の名前好きよ」
「それは良かったな。僕の名前な、僕の死んだお兄ちゃんと同じ名前やねん」
「え…」
N君は一人っ子だったので、私はまずそのことに衝撃を受けました。
「知らんかった、Nってお兄さんいたん?」
「僕が生まれる四年前におってん。生まれてすぐ死んだらしいけど。だから僕は知らんねんけど」
「うん…」
「で、そのお兄ちゃんの名前と、僕、同じ名前やねんて。浜崎どう思う?」
「どうって…?」
「僕、たまに思うねん、お兄ちゃんが生きてたら、僕、生まれてなかったんかなぁって。それに僕、お兄ちゃんの身代わりで生まれてきたってお父さんとお母さんに思われてるんかなって。僕は僕なのに、僕のこと認めてくれてない気がたまにするねん」
「お母さんはNになんでその話したん?」
「忘れたけど。たまに泣きながら言うんよ、死んだN、僕のお兄ちゃんにもっとこうしてあげたかったとかそういうの。それ聞くたびに僕がどんな思いしてるか知らんのかな。なんて言ったら良いと思う? 浜崎はどう思う?」
私はその時に彼にどんな言葉をかけたか覚えていません。あまりにも衝撃的だったその話は、今でも彼と同じ名前の男性に出会うたびに思い出しますし、人と話していて名前の話題になった時に必ず思い出します。
彼が今では自分の名前が自分自身のものだと思えているように願ってやみません。