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ドキュメンタリー映画『拳と祈り ―袴田巖の生涯―』(笠井千晶 監督作品)が劇場公開決定、キービジュアル解禁。生きて還った袴田巖の知られざる闘いの物語

2024.08.21

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ドキュメンタリー映画『拳と祈り ―袴田巖の生涯―』(笠井千晶 監督作品)が10月19日(土)よりユーロスペースほか全国の劇場で順次公開されることが決定した。

釈放当日──。世紀の瞬間の舞台裏を撮った、1台のカメラがあった

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2014年3月、東京拘置所。死刑囚の袴田巖さんが、突如釈放された。
1966年6月に静岡県で味噌会社専務一家4人が殺害され、放火された事件の犯人とされ、47年7カ月もの獄中生活を送ってきた。明日突然、死刑が執行されるかもしれない。そんな恐怖の日々をくぐり抜け、30歳の青年は78歳になっていた。
着の身着のままワゴン車で東京拘置所を後にした時、本作監督の笠井千晶が助手席でまわすカメラが捉えたのは、まるで夢から覚めたような袴田さんの表情だった。死刑囚が再審開始決定と同時に釈放されるという、驚くべき事態を当日のニュースは劇的に報道した。
その夜、半世紀近く引き裂かれていた姉と弟が枕を並べた。拘置所の壁に隔てられ、想像を絶する苦難を生き抜いたものの、奪われた時間は戻らない。なぜこれほどの試練が与えられなければならなかったのか。言葉にしがたい悲しみや喪失を2人の寝息が静かに包み込む。さらに続くことになる司法との闘いを覚悟しながら、カメラは2人の生活を記録し、対話を重ね、袴田さんの心の内面深くに迫っていく。

拳ひとつで闘った記憶は生き抜くための支えとなった。前代未聞の釈放から10年、ついに再審判決を迎える──

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プロボクサーとして青春を駆け抜けた袴田さんは30歳で突然、逮捕された。無実の訴えは裁判所、そして世間からも黙殺された。そんな過酷な状況下でも、リングに上がり拳ひとつで闘った遠い記憶は、生き抜くための支えとなっていた。やがて袴田さんは獄中で、自らを「神」と名乗り始める。
一方で、釈放され故郷・浜松に戻ってからもボクサーとしての記憶が袴田さんの足を思い出の地へと向かわせる。弟の無罪を信じて闘ってきた秀子さんは、そんな巖さんを明るく見守り、「この映画は、笑ってるとこでも泣いてるとこでも、私は真実のものを伝えてくれればいいと思ってます」と語る。生きて歩く死刑囚──。その存在は、権力によって覆い隠されてきた「死刑」という刑罰の残酷さを、白日のもとに晒す。そして、時に人の理解を超えた袴田さんの言動が意味するものとは何なのか。やがて一つの答えにたどり着く。
 

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釈放から10年の節目に完成する本作は、死刑囚のまま生きることを強いられた、袴田巖さんの闘いの軌跡だ。22年間にわたって袴田さんを追い続けてきた笠井監督は現在もカメラを回し続けている。そして、来るべき再審判決(2024年9月26日)の結末を見届け、いよいよ劇場公開される。

DIRECTOR'S STATEMENT 

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 袴田巖さんという“存在”との出会いは、2002年1月のことでした。私は当時20代。静岡のテレビ局で報道記者になり2年目の駆け出しで、静岡県警の記者クラブに詰めていました。袴田さんは東京拘置所に収監され、再審請求の訴えもことごとく棄却されていた時代。当時の「袴田事件」は世間から忘れられた存在だったのです。
 「この社会のどこかで、隔離された独房の中にあり誰の目にも触れず、その声を聞かれることもなく、今この瞬間も、孤独の中でひっそりと息をしている人がいる。」あの日に感じた衝撃と、袴田巖さんという人物への尽きない興味は、いまでもほとんど変わっていない気がします。しかも、明日をも知れぬ命。「確定死刑囚」とは、まさに死刑執行のためだけに生かされている存在と言えます。人間のあり様として極限状態に置かれたその人に、私は強烈に惹かれ、居ても立ってもいられなかった、それが全ての始まりでした。
 
 それから22年。いま私は、フリーランスとして自分の手で制作した袴田巖さんのドキュメンタリー映画を、まさに公開しようとしています。袴田事件を扱ったテレビ番組は過去に4本制作し、袴田さんを追いかける日々は、40代もまもなく終わりを迎える私にとって、いつの間にかライフワークとなっていました。生きて会うことは叶わないと思っていた袴田さんは、元気に、自分の足で歩いて拘置所を出てきました。2014年3月27日、忘れがたい「釈放」の日です。私が助手席に乗ったワゴン車が東京拘置所の正面玄関に横付けされ、そこに袴田さんが乗り込んで来た瞬間は、私の五感に鮮やかな記憶として刻まれています。
 
 極限を生き抜いて、生きて戻った袴田さんの精神世界は、最初から私の興味関心の中心でした。今回の作品「拳と祈り」の中で、それを初めて主題とすることが出来ました。もともと寡黙な性格で、多くを語らない袴田さんが構築した世界を、対話を通して私なりにビジュアル化したいという挑戦がありました。どんなに非道で残虐な仕打ちを受けたとしても、人間の心は縛れない。そして権力がどんな手を使って、個人を社会的に抹殺しようと企てたとしても、人間は決して屈しないし、自分の精神世界でなら全てに打ち勝つことができる。それが22年追い続けた袴田さんが、私に教えてくれたことです。
 
──『拳と祈り ―袴田巖の生涯―』監督/笠井千晶

出演者

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袴田巖(はかまだ・いわお)
1936年(昭和11年)、浜名湖畔の静岡県雄踏町(現・浜松市西区)生まれ。88歳。元プロボクサー。
中学卒業後、工場で働きながら、ボクシングジムに通い始める。1957年の静岡国体にボクシング代表として出場。上京して神奈川県川崎市のジムに入門し、23歳でプロボクサーとなる。日本フェザー級6位にランキングされるも、1961年に身体の故障で休業。
その後、静岡県清水市(現・静岡市清水区)に移住し、キャバレーでバーテンとして働くなどした後、こがね味噌の工員として住み込みで働くようになった。1966年6月、30歳の時に発生したこがね味噌専務一家の強盗殺人事件で逮捕され、1980年に死刑判決が確定。獄中から無実を訴え、2014年に再審請求が認められ、釈放された。現在は浜松市で姉の秀子さんと2人で暮らしている。
 

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袴田秀子(はかまだ・ひでこ)
巖さんの姉。1933年(昭和8年)生まれ。91歳。6人兄弟の5番目で、巖さんが末っ子。
中学卒業後、浜松の税務署に事務見習いとして就職。22歳で結婚し、翌年に離婚。その後、税務署を辞め、民間の税理士事務所に入り経理の知識を身に付けた。知人が経営する会社で経理として住み込みで働き始め、以後70代まで40年近く務めた。ご本人曰く、「女一人で好きなことをやって生きてきた。」1966年に巖さんが逮捕されて以降、面会や差し入れなどの支援を続ける。弟の無実を信じ続けた末、2014年に巖さんが釈放された。

袴田秀子さんからのメッセージ

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映画では笑ってるとこでも泣いてるとこでも、私は真実のものを伝えてくれればいいと思ってます。巖の釈放の時からの映像もね、笠井さんはずっと撮ってくれてるの。拘置所を出る時の車の中からね。付き合いも長くなりまして、笠井さんはもう娘みたいな存在。今回の映画には、私は大いに期待をしております。

監督・撮影・編集

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笠井千晶(かさい・ちあき)
1974年、山梨県出身。お茶の水女子大学 文教育学部外国文学科英語学卒業。ドキュメンタリー監督・ジャーナリスト。(公式HP|https://chiaki.link
新卒で静岡放送に入社し、報道記者としてニュースやドキュメンタリー番組に携わる。2002年より袴田秀子さんと親交を深め、20年以上プライベートでも撮影しながら交流を続ける。2006年に同社退社後、ニューヨーク留学を経て、2008年より中京テレビに勤務。2015年に独立しフリーランスに。Rain field Productionを立上げ、テレビやネット等でドキュメンタリーを発表している。長編ドキュメンタリー映画の初監督作品「Life 生きてゆく」(2017年)で、第5回山本美香記念国際ジャーナリスト賞を受賞。本作は長編ドキュメンタリー映画2作目となる。

「袴田事件」58年の歴史

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▲若き日の袴田巖さん、実家の庭先にて。

【事件発生から再審請求へ】
1966年6月30日未明、静岡県清水市(現・静岡市清水区)で、全焼した民家の焼け跡から刃物で刺された一家4人の遺体が発見された。被害者は味噌製造会社の専務一家で、強盗殺人、放火などの容疑で逮捕されたのは、味噌会社の住み込み従業員の袴田巖さん当時30歳だった。背景にあったのは、「元プロボクサーならやりかねない」という偏見。拷問を伴う長時間の取り調べにより「自白」を強要させられた。
袴田巖さんは裁判で一貫して無実を訴えたが、1968年静岡地裁で死刑判決、1980年には最高裁で死刑判決が確定した。翌年、袴田さんは裁判のやり直しを求める訴え(再審請求)を起こした。
 
<「袴田事件」略年表 >
▶︎ 事件発生〜死刑判決
  1966年6月30日 清水市で一家四人の殺害放火事件発生
  1966年8月18日 袴田さん逮捕
  1968 — 1980年 静岡地裁で死刑判決〜最高裁が上告棄却・死刑判決確定
▶︎ 再審請求
  1981 — 2008年 第一次再審請求(地裁、高裁、最高裁でいずれも棄却)
  2008 — 2023年3月20日 第二次再審請求
  2014年 静岡地裁が「再審開始」、釈放
  2018年 東京高裁が「再審開始取消し」 
  2020年 最高裁は「高裁の決定を取り消し、高裁に審理を差し戻し」
  2023年 東京高裁で「再審開始」確定 → 2024年9月に「無罪判決」か
 

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【開かずの扉が開いた】
再審請求から33年後の2014年3月27日、静岡地裁で「再審開始」が認められ、袴田さんは獄中48年目にして東京拘置所から釈放された。しかし、静岡地方検察庁がこれを不服として即時抗告し、2018年に東京高裁で「再審開始取り消し」となった。それに対し弁護団も特別抗告し、2020年に最高裁が東京高裁に審理のやり直しを命じた。そして2023年3月、東京高裁で「再審開始」が確定した。
 
【歴史的な再審無罪判決へ】
2023年10月に静岡地裁でやり直しの裁判(再審公判)が始まり、2024年9月26日には袴田さんに対する無罪判決が出される見込みとなった。死刑囚の再審無罪は1980年代に4例あるが、それ以降一度もない。今回無罪となれば、35年ぶりで戦後5例目となる。
再審無罪の判決が確定しない限り、袴田さんは死刑囚のまま。釈放されてはいても、死刑と隣り合わせの存在であることに変わりはない。「袴田事件」の行方は、死刑制度の是非と共に世界的に注目を集めている。

再審無罪となった「死刑冤罪4大事件」について

日本の司法の歴史上、過去に確定死刑囚が再審で無罪となったのは4件のみ。いずれも1980年代のことである。
 
<免田事件>
1983年に、34年余りの獄中生活を経て日本で初めて死刑囚が再審無罪となったケースが、熊本県の「免田事件」だ。1948年に熊本県人吉市で起きた一家4人の殺傷事件で逮捕された免田栄さん(当時23歳)は、不眠不休の取調べの結果、自白させられ、1951年に死刑が確定した。翌年から再審請求を行い、28年後の1980年に第6次再審請求で、免田さんにアリバイがあることが認められ、再審開始が確定。熊本地裁八代支部が無罪を言い渡した。
 
<財田川事件>
1984年3月に再審無罪となった香川県の「財田川事件」では、地元の“素行不良者”という風評により、谷口繁義さん(当時19歳)が強盗殺人事件の犯人とされた。1950年、香川県三豊郡財田村(現・三豊市)で1人暮らしの男性が自宅で殺害された本件について、谷口さんは当初、別件の強盗殺人事件で逮捕されていたが、代用監獄での長期間の暴力的な取り調べの結果、本件についても自白を強要され、1957年に死刑が確定した。事件発生から31年後の1981年に高松高裁で再審開始が確定し、高松地裁で開かれた再審公判で無罪判決が言い渡された。
 
<松山事件>
1984年7月には、宮城県の「松山事件」で、殺人・放火事件の犯人とされ死刑判決を受けた斎藤幸夫さん(当時24歳)が再審無罪となった。1955年、宮城県志田郡松山町(現・大崎市)で発生した本件は、火災の跡から一家4人の焼死体が見つかったもので、別件の暴行事件で逮捕された斎藤さんが、本件についても自白させられ、1960年に死刑が確定した。
再審請求では、斎藤さんの自宅から押収された布団カバーや斎藤さんの着衣への血痕付着状況が不自然だと指摘され、1983年には仙台高裁が再審を開始。再審公判が開かれた仙台地裁で、無罪判決が言い渡された。
 
<島田事件>
1989年に再審無罪が言い渡されたのは、静岡県の「島田事件」である。1954年、静岡県島田市で6歳の女児が誘拐され、大井川沿いの山林で遺体が発見された幼女強姦殺人事件で、犯人とされたのが赤堀政夫さん(当時25歳)だった。赤堀さんは別件の窃盗罪で逮捕され、代用監獄での暴行や脅迫による取り調べの末に自白させられ、1960年に死刑が確定した。赤堀さんの自白によると女児を殺害した凶器は石とされていたが、再審請求では、被害者の傷痕が石では生じないことが明らかにされた。そして第4次再審請求の結果、1987年に東京高裁が再審を開始。事件発生と逮捕から35年後の1989年、静岡地裁が無罪を言い渡した。
 
「島田事件」は、「袴田事件」と同じ静岡地裁に係属していたこともあり、「袴田事件」の審理進行にも少なからず影響したと言われている。当時、獄中にいた袴田巖さんは、「次は自分の番だ。」と手紙などに綴り、島田事件の再審無罪に大いに勇気付けられたことが知られている。実際には、袴田さんに無罪が言い渡される見込みとなったのは、「島田事件」から遅れること35年の2024年だった。
 
【参照:日本弁護士連合会ホームページ】

商品情報

映画『拳と祈り ―袴田巖の生涯―』

出演:袴田巖、袴田秀子

監督・撮影・編集:笠井千晶
音楽:Stephen Pottinger
タイトル題字:金澤翔子
ナレーター:中本 修、棚橋真典
整音:浅井 豊
撮影協力:三上誠志、原 徳則、永田靖、福田典嗣(スチール)
デスク:杉浦邦枝
海外コーディネーター:Todd Mckay

特別協力:
WBC(世界ボクシング評議会)
日本プロボクシング協会 袴田巖支援委員会
川崎新田ボクシングジム

企画・製作:Rain field Production
配給・宣伝:太秦
【2024年/159分/16:9/カラー/日本】
©︎ Rain field Production

10月19日(土)よりユーロスペースほか全国順次公開

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