「こんなバカげた証拠で人を有罪に、それも死刑なんて無茶だ」
袴田事件を担当した当時30歳だった裁判官の熊本典道は、必死に異議を唱えた。しかし2人の先輩裁判官に押し切られ、心にもない死刑判決文を書くことに──。
2023年8月21日(月)に、『完全版 袴田事件を裁いた男無罪を確信しながら死刑判決文を書いた元エリート裁判官・熊本典道の転落』が大幅加筆で緊急発売された。
熊本はもちろんのこと、彼に関係した人々との面会を重ね、貴重な証言を検証しながら、人間の業の深さ、清潔さ、複雑さを浮き彫りにしていくヒューマンドキュメントだ。
熊本典道は裁判官を辞めて、酒におぼれ、家族を崩壊させ、自殺未遂をし、やがて行方不明となってしまう。ところが事件から40年が経った頃、突然マスコミの前に現れて「あの裁判は間違っていた」と語り出す。その姿をテレビや新聞は大きく取り上げ、海外のメディアからも勇気ある発言、良心的な判事だと、その行動を賞賛する報道が相次いだ。
しかし取材を重ねていくと、「良心ある告白をした美談の男」とは別の、もう一つの顔があることが分かってきた。そして熊本自身も「この話を決して美談にしてはいけない」と著者に念を押すようになる。熊本の本心は何なのだろうか。償い? それとも売名行為なのだろうか?
▲2008年1月、熊本典道は後楽園ホールで行なわれた再審開始を目指すイベントに参加。袴田さんは無罪であることを訴えた。
本書は、2014年に刊行された朝日文庫に大幅加筆したもの。2014年3月27日、静岡地裁が再審決定をして、袴田さんが東京拘置所から釈放された以降の出来事に追っていく。危篤状態の熊本がついに袴田巌さんと面会できたときのこと、2020年に福岡県の病院で亡くなったときのこと、2023年、東京高裁の再審開始決定のことなどについて、袴田巌さん、姉の秀子さん、熊本の親族、袴田弁護団、支援の会の人々に再取材した。
黒澤明の『生きる』という名作がある。主人公は区役所に勤める定年退職直前の課長。しかし胃がんで余命宣告されたことをきっかけに、自分の人生の意味を問い直す。
熊本典道が事件から40年後、突如マスコミの前に現れて、守秘義務を破ってまで語り出したのは、熊本自身の「生きる」だったのかもしれない。しかし長女は「父は自分の人生を美しく飾ってますよ」と責め、ホームレス同然だった熊本の最期を看取ったパートナーは「あの人は出会わんほうがよかった」とまで言い、熊本本人も「この話を美談にするな」と念を押すのだ。
本書は、熊本はもちろんのこと、彼に関係した人々との面会を重ね、貴重な証言を検証しながら、人間の業の深さ、清潔さ、複雑さを浮き彫りにしていくヒューマンドキュメントだ。
▲熱望していた袴田さんとの面会がかなう。危篤状態ながら熊本は「悪かった…」と謝罪した。熊本は2020年11月死去。(撮影:青柳雄介)
「解説」は、江川紹子氏。「特別付録」には、佐藤優氏のコラム、朝日新聞取材班の記事、静岡地裁の元裁判官で2014年に再審を決定し、袴田さんの拘置を停止した村山浩昭氏や東京高裁の元裁判官・木谷明氏の講演録を収録した。これらを読むと、これまでの袴田事件の経緯、袴田事件が私たちに問いかけている課題が理解できる。
厚労省の村木厚子さんの事件では、検察は証拠のフロッピーディスクを「改竄」してまで村木さんを有罪にしようとした。2014年の静岡地裁、再審開始を決定して袴田さんを拘置所から釈放した村山裁判長、そして2023年の東京高裁、差戻し審で再審開始を決めた大善裁判長の決定文でも、捜査機関が証拠を「捏造」した可能性が高いことを指摘している。警察は本当に、こんな大掛かりな証拠捏造をしたのだろうか? いよいよ静岡地裁で、再審公判が始まろうとしている。
▲姉の秀子さんは「巌だけが助かればいいとは思っていない」と言う。冤罪で苦しむ人がいなくなるために、再審法の改正を訴える。