2022年9月27日、安倍晋三元首相の国葬が日本武道館で行われていた同時刻、渋谷のライブハウスLOFT9では足立正生監督が山上徹也をモデルに撮った映画『REVOLUTION+1』の上映会が行われていた。そして『なぜ君は総理大臣になれないのか』の大島新監督は全国10箇所でカメラを回し、国葬の日の人々の姿をスケッチしていた。
国葬の是非を巡って国論を分断させたように見えたこの日、日本はどのような姿だったのか? 映画『国葬の日』について、足立・大島両監督に語ってもらった。(構成:加藤梅造)
スケッチという手法で日本全体が見えてくることに大きな意味がある
──間もなく昨年9月27日の安倍元首相の国葬から1年ということで、国葬をきっかけにそれぞれ映画を撮った足立正生監督と大島新監督の対談を聞いてみたいと思いました。大島監督が『国葬の日』を撮るきっかけとして足立監督の『REVOLUTION+1』があったということですが。
大島 足立さんの『REVOLUTION+1』がなければそもそも国葬の日にカメラを回そうとは思わなかったですね。「国葬」をテーマに何か撮らなければと思いながら、なかなかアイデアが浮かばなくてモヤモヤしていた時に、足立さんが安倍元首相銃撃事件をフィクションにしてそれを国葬の日に上映することを知ったんです。しかも嫌がらせで上映館の1つが中止になったというニュースを聞いて、なぜかすごく胸が熱くなってしまった。まだ何も決まってないけど『REVOLUTION+1』の国葬上映の様子だけは撮りたいと思いました。そして国葬の3日前の9月24日に、突然「国葬の日の1日を全国10箇所で撮影する」というアイデアが浮かんだんです。
足立 それだけ直前なのに準備はできるものなの?
大島 もともと私はテレビ出身なので、何か事件があった時に「さあ行け」ってカメラを回すのは慣れているのと、最近は機材が小型化しているので、現場1人でも撮影できるようになったというのもあります。
足立 『国葬の日』を見終えて、「国葬の日」の1日だけをスケッチする、しかも全国10箇所をほぼ同時刻に撮ることで、今の日本の実情はどうなんだという問題提起になっていると感じました。安倍元首相銃撃事件によって引き裂かれた現実の姿、そして岸田首相が国葬にすると宣伝したことによって見えてきたものを非常にうまく表している。つまり、普通のドキュメンタリー映画風にテーマに沿って撮っているのではなく、1日10箇所を同時にスケッチしたことが重要なんだと。もちろんそこには、福島の被災地や沖縄の辺野古といった大島さんの意図が仕込まれていると思うけど、スケッチという手法で日本全体が見えてくることに大きな意味がある。
大島 私は「国葬の日」の「の日」を撮りたかったんです。映画を見た人、特に左派の人から、国会前の反対集会の場面が入ってないとか、国葬の是非を全然突っ込んでないとか、いろいろ言われるんですが、私にとっては「国葬」より「の日」の方が重要で、そこにこそ今、日本人が何を考えているのか、すべてではないですが、ある種のサンプルが抽出できると考えたんです。
足立 もちろん反対派と賛成派の主張を明確に対比したらいいじゃないかという発想もあるんだろうけど、この映画のテーマはそこではないからね。国葬を巡って反対賛成とやっているけど、じゃあ、それを取り巻いている日本ってどうなの?っていうのがテーマで、そこを描けるかどうかに留意して撮っているのがよく分かる。スケッチとして通したことの強みが作品としてうまく成立しているなと思いました。
大島 僕の意図をすべて代弁してくれて嬉しいです(笑)
足立 ニュース番組というのは事実を編集してしまえばそれは情報でしかない。編集することで消えてしまうものがある。そこで大胆にスケッチをすることによって、むしろ不揃いの中にこそ日本の実情が非常に説得力を持ってくる。なにか起こった時に自分はどこにいてそれをどう捕まえたのか。そうした即効的な力が生きた作品だと胸を張っていい映画だと思います。
日本人の個の弱さをずっと感じている
足立 映画を観た人から「足立さん、大島さんの映画に出てましたね」って言われるんだけど、俺は出たんじゃなくてスケッチされただけなんだよと答えてます。
大島 実際、足立さんや落合恵子さんの名前のテロップを入れた方がいいと言われたりもしたんですが、この映画に出ている人一人ひとりがみな同じ立場なんです。有名だからテロップを入れるというのとは違う。
足立 まあ俺みたいに騒々しい奴はいかにも出てるみたいに見えちゃうけど、日本各地の場面では、もっと日常的な、たくさんの人達がスケッチとして出ているからね。(安倍元首相の事務所がある)下関に出てくる女性なんかはすごく説得力があったな。日本人の平均的な馬鹿馬鹿しさがよく出ていて(笑)
大島 私の口から「馬鹿馬鹿しさ」とはとても言えないですが、ある種の日本人像みたいな場面はあちこちに撮れていて、例えば、京都に出てくる若者達は、今日が国葬だということをいま知ったとか、安倍さんを大統領って言ったりとか、こちらも思わず「えっ」と驚くようなことが結構ありました。私も脱力しつつ、映画としては面白い場面が撮れたなと。
足立 その脱力感については僕も話したいと思うんだけど、山上徹也の安倍元首相襲撃と国葬、そして統一教会と自民党の癒着の問題など、表現者として対象にしたいものはいっぱいあるんだけど、ここまで底が抜けてしまった日本自体の状態を見ていると、この悲惨な状態をまずは集めていくしかない。大島さんが感じたイラつきと脱力感、それを自分で実感しただけでもいいじゃないかと思う。統一教会と自民党の癒着の問題とかは次にまたスケッチすればいい。
大島 底が抜けてしまった日本ということで言うと、ここ数年、私は日本人の個の弱さをずっと感じています。国葬については確かに反対の声が6割程あったんですね。それは最初に岸田首相が発表した時よりも増えていったんですが、それは統一教会の問題がどんどん報道されたことが大きいと思うんです。つまり、みんなが問題だって言い出したから反対が増えていったんじゃないかと。明確な意見ではなく、どちらかと言えば反対という曖昧な人の意見はちょっとしたことで賛成側にいく。そこはいつも気になります。例えば、コロナ禍の時、政府の対策がいろいろうまくいかなくて安倍首相の支持率も30%ちょっとに落ちてたんです。それで安倍さんは体調を壊して辞任したんですが、辞めると決まった数日後には支持率が15ポイント上がったんです。これって何なんだと。ついこの間までコロナ対策何やってるんだって文句言ってたのに、辞めると決まったら「安倍さん、長い間おつかれさま」みたいなよくわからない同情票が急に増えた。この振れ幅ってちょっと怖いなと。
何かあれば簡単に揺れる層っていうのがあって、そこが底の抜ける理由なんじゃないかと考えてるんです。映画の中でも奈良のタクシーの運転手が「デモをやったってもう遅いでしょ。国が決めたことなんだから」って言うシーンがありますが、この「お上が決めたんだから」という人は結構多いですね。一方で例えば辺野古で基地反対の座り込みをしている人達には明確な言葉があります。それは彼らがずっと時の権力に翻弄されてきた歴史があるからで、それは福島の原発の問題でもそうですね。政治が生活に直結している人達からは明確な言葉が出てくるんだけど、そうではない多くの人にとっては国葬の問題も「どっちでもええわ」ってことになってしまう。
足立 政治と日常との乖離ということで言うと、本来、政治と日常は一人一人の中で矛盾しているはずなんです。その矛盾をどうさせないようにするかを考えないといけないんだけど…。
ちょっと話が飛ぶけど、最近公開された森達也監督の『福田村事件』、あの映画で描かれているような朝鮮人虐殺事件が関東エリアで何カ所も起きたのは何故なのかを考えると、あの事件の以前から在日朝鮮人に対する攻撃は起こっていて、それは特に軍部と癒着していた大企業が日本人という抽象的な概念をどんどん軍国思想で固めていく中で差別を作り出してきたという経緯があるわけですよね。あの映画で描かれているのは、人々が政治と日常の中で抱えた矛盾をどうするのかと問われた時、横並びになることでしか解決できないという特性が強まったということ。そこで日本の軍部と警視庁が流言飛語を事実であると通達することによって、関東大震災の被害から目をそらし一方的な内容へと誘導していく。朝鮮人虐殺はその中で起こった悲惨な事件だった。
もしあの日を大島新がスケッチしたらどういう映像が撮れたのか? そこには日本人のひどさがありありと写っていたと思う。「これは黙っていられません」と言うジャーナリストもいたけど、結局、多くの人は事件のことを全部飲み込んで、みんなで日常に戻るしかない、となってしまった。結局それが百年間続いているわけでしょ。
大島 確かに百年続いてますね。いま足立さんがおっしゃった「横並び」というのが人間の特性なのか、あるいは日本人に特に顕著なのか。私は後者なのかなという気がするんです。
足立 もちろん日本以外にも同じような事件はあるけど、横並びで済まないことが多いよね。日本の場合は横並びにしておけば解決策が他から来るという傾向があるように思います。悪い事もみんなでやればなんとかなるというような発想。日本の政治にはそういうやり方が横行している。そして、そこからはみ出た者はつまはじきにされてしまう。あの映画を観て、横並びの好きな日本人が横並びが一番だめなんだということが分かればいいんだけど…。