1/27にSHINJUKU LOFT KABUKI-CHO 20TH ANNIVERSARY PRE-EVENTの一環も兼ね、昼夜二回に分け内容の異なる生誕祭ライブ「U-ya Asaoka 50th Birthday Live2019 [1969~2019]」を新宿ロフトにて行う浅岡雄也。この5年、毎年この時期にそれは行なわれてきた。毎年って...。当初は彼と新宿ロフトの結びつきに疑問があった。私のイメージする彼への歌を含むイメージと、新宿ロフトとがあまり結びつかなかったからだ。しかし、話をしてみて、彼がここでやる意味や意義、想いや理由等の行う必然性が浮かび上がってきた。
何卒、従来の彼への印象だけで読み飛ばさないで欲しい。実は浅岡雄也は新宿ロフト愛溢れる男なのだから。[interview:池田スカオ和宏]
こっち側(新宿ロフト系)の人間だったはずが、気づいたら何故か向こう側にいた(笑)
浅岡:新宿ロフトでは僕、BOØWYのロフト2DAYSのどちらかを観ているんですよ。
──えっ!? あの伝説の?
浅岡:そうそう。2ndアルバム『インスタントラブ』を出した辺りの頃で。ライヴの拠点を渋谷のLIVE INNに移す直前頃のヤツを。
──それ、むっちゃ貴重ですよ!? 失礼ですけど意外です。
浅岡:FIELD OF VIEWのイメージが強いと思うんだけど、実は僕はこっち側(新宿ロフト系)だったりするんです。途中から気づいたら何故か向こう側にいた(笑)。
──では、最初に新宿ロフトに足を運んだのは?
浅岡:中学2~3年の頃ですね。僕、地元が杉並だったので、先輩に連れられて。当然、当時はその中でも最年少の部類でしたよ。その頃から音楽やろう!! と思い立って。それもあり、新宿ロフトには異常なくらい思い入れがあるんです。
──なるほど。生誕祭を毎年ここで演っている理由が分かりました。当時はどんなバンドを?
浅岡:バンドは高校の頃から始めて。当時で言うビートバンク系。そのバンドで当時の新宿、渋谷のライヴハウスは片っ端から出ていましたよ。ほら、高校生だったし地元だったから、同級生や友だちがライヴに沢山来てくれたので、動員があったんで。演奏はめちゃくちゃ下手だったけど(笑)。
──ぶっちゃけ想像できません。ずっと優等生的な印象を持ってました。
浅岡:当時はメンバーも現AV男優の大島丈がいたり(笑)。とは言え、残念ながら逆にロフトは一度も出させてもらえなくて。出たくてオーディションも受けたのだけど叶わなくて。だからその時から、「いつか絶対に何かあったらロフトでやってやる!!」って(笑)。5年前に30年越しの念願叶ってロフト初出演が出来ました(笑)。
──それがどうしてFIELD OF VIEWのような方面に?
浅岡:僕、この声なので、歌うとどうしても清涼感が出ちゃって(笑)。やっているうちに、やっぱりこっちは向いてないのかも…と思い始めて。それが19歳ぐらいでした。そこからですね、路線が変わり始めたのは。
──それにしても180度変わりましたね。
浅岡:当時、プロデューサーから「君たち、育ち良さそうに見えるから、”お金持ちのボンボンがバンドをやっています”って雰囲気を裏コンセプトにしていこう!」となって。メンバーの誰一人としておぼっちゃんなんていないのに(笑)。当初、僕に、「浅岡、左利きBass持って歌える?」とも言われたので、Beetlesにしたかったのでしょうね(笑)。
──実際に初めて新宿ロフトのステージに立っていかがでした?
浅岡:感慨深かったですよ。(移転して)場所は違えど、まさか立てるとは思わなかったし、しかも45歳になってからですから。
音楽をずっとやってきて、ようやく自分の脳内と作品が合致してきた
──今年はソロデビュー15周年でもあるわけですが、振り返っていかがですか?
浅岡:結局、自分は音楽以外やれることも 他にやりたいこともないんで、なので続けてこられたんだろうなって。
──それは?
浅岡:浅岡雄也としてのヒットはこれまで1曲もないですからね。こうなったらヒットが出るまでやり続けるしかないなって(笑)。でも、そのヒットにしても、「売れたい」とはまたちょっとニュアンスが違っていて。もっと広く多くの人に聴いてもらったり、知ってもらったりする意味合いが強い。ヒットチャートに入って、売れちゃうとどうなるか? 面倒臭さも含め経験しているんで(笑)。音楽しかやってないので、最近ようやく自分の脳内と作品が合致してきた感があるんです。
──その辺りを詳しく。
浅岡:自分でアレンジ~完パケまで出来るようになってきた。それが大きいですね。頭の中で鳴っている理想の音が、ようやく自分の作品として具現化できるようになってきたというか。でも、それもやり続けてきたからだなと感じるし。でも僕、けっこう若い頃からDTMを使ってしっかりとデモを作っていたんですよ。
──多くの人がギター1本で弾き語り等から膨らませていく場合も多いですもんね、浅岡さんの世代になると。
浅岡:僕、音楽始めたきっかけがYMOからだったから。打ち込みにも興味がありました。
──別名義でテクノもやられてたりしますもんね。
浅岡:それもアルバムを6枚出しています。どうやって融合をさせてお客さんに伝えようか? はずっと考えていて。もともとそっちも並行してやっていて。90年代の初頭は、テクノに行くか? 歌謡曲に行くか? 本気で悩みましたから。で、「テクノは来ない!!」と踏んで。「こうなったら超ホップスを目指そう!!」と。そうしたら直後に電気グルーヴが売れちゃった(笑)。
この生誕祭だけは自分に嘘をつかず、自分のやりたいことをやりたいようにやる
──いつも生誕祭のライヴは、どのような内容なんですか?
浅岡:通常の僕のライヴとは全く違った雰囲気ですね。誕生祝いなので、あえて好きなことをやらせてもらっています。憧れのロフトだし、60歳ぐらいまでは毎年やらせてもらおうかなって。せっかく自分の出たかった所に戻れたのだし。あとは、毎年ここでBOØWYのカバーを演っているんです。しかもあえて有名どころでない曲を。とは言え、全く知らないと引いちゃうから、アルバムの中で聴いたことありそうであろう曲をあえて歌うんです。
──ご自身の曲はいかがですか?
浅岡:FIELD OF VIEWから浅岡雄也ソロまで、全部の中からベスト的なチョイスをし、その時の気分やモードで最も歌いたい曲を歌ってます。でも、これがあるから、「今年も1年頑張ろう!!」って気になるし、それこそ僕の1年はLOFTから始まっているようなもんですから!
──今年はどんな感じになりそうですか? 50歳というアニバーサリー的な生誕ライヴでもありますが?
浅岡:今年は50歳の節目なので、僕、YMOから音楽に入ったんで、その頃から自分のルーツ的なものをいろいろ披露するのも面白いかなって。まだ現段階では何も考えてないです(笑)。
──今年は2部制なんですよね?
浅岡:2部目は、まだ何も考えていませんが(笑)。こちらはコアなお客さんが多いでしょうから、あえてしゃべり多めのアコースティックライヴにして、より親近感のある温かいステージを目指しています。1部目は、こちらもまだ何もプランはありませんが(笑)、30曲ぐらいはやろうかなと。3時間ぐらい。
──3時間で30曲!? 2部目に支障は?
浅岡:僕の場合、1曲がそんなに長くないから、出来るんじゃないかな。でも、こっちもかなりユルいと思います。マイペースでやろうと。もう、この年になると音楽にしても、年齢にしても嘘をつきたくないなって。あと、いつ死ぬか分からないですから、もうやりたいことをやらせてもらおうと。せっかく憧れだったロフトのステージで歌えるのだから、この時ばかりはあの時の少年時代に戻って、自分に嘘をつかず、やりたいことをやりたいようにやろうかなと。50年に一度なのでみなさんも付き合って頂きたいです(笑)。どうぞ宜しくお願い致します!
(Rooftop2019年1月号)