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INTERVIEW

トップインタビュー10月12日(金)新宿ロフトPresents【A day in the LIFE】 SOUL FLOWER UNION×THA BLUE HERB Special Interview

音と言葉。思考と踊り。緊張と解放。饗宴の極み、ここにあり。

2012.09.27

 遂に、と言うべきだろう。道無き道を突き進み、異色から王道へと突き抜けたROCKとHIPHOPの両雄がこの日、激突する。
 「説明不要」「来ればわかる」この言葉が最も当てはまるのは、この2マンをおいて他にはない。
 希代の異種対決を前にしたSOUL FLOWER UNIONの中川敬、THA BLUE HERBのILL-BOSSTINOそれぞれから話を聞いた。(聞き手:上野祥法/ロフトプロジェクト)

中川敬(SOUL FLOWER UNION)編
みるみる空気が引き締まっていってね。カッコ良かったよ。

── THA BLUE HERB(以下TBH)を知ったのはいつ頃ですか?

「10年ぐらい前に、音楽雑誌『snoozer』の編集部の若衆に「中川さん、ブルーハーブ聴いてくださいよ!」って言われて、カセットテープをもらった。何故かカセットテープ(笑)。でも、もはやカセットテープを聴く機器を持ってなかった(笑)。ただ、あまりに熱心で、気にはなってたんよね。で、数年前、広島のフェス『FESTA de RAMA』の楽屋でバッタリ邂逅して、ステージ袖から観たのが最初やね。」

── ライヴをご覧になった時の印象は?

「インパクトあったよ。場内の雰囲気をひっくるめて、世界が一瞬にして締まるというかね。俺らがアホみたいなライブやった後やったからかもしれんけど(笑)。俺らの「海ゆかば山ゆかば踊るかばね」が終わって、笑ってるホモサピエンスしかいない、みたいな状況の後に、彼がラップを始めて。俺は普段あまり日本のヒップホップは聴いてないから、どんなもんなんかなと思って観ててんけど。みるみる空気が引き締まっていってね。カッコ良かったよ。」

── その後、2010年にソウルフラワーのメンバーも実行委員になっていた、沖縄の辺野古で行われたフェス『Peace Music Festa'10』で再会しますね。

「ああいうイベントっていうのはちゃんとしたギャラとか渡せないから、話を聞いたときに、パッと頭の回転が効いて、「そこはスケジュール空いてるし、是非参加したい」と即答してくれるミュージシャンには、なんていうか、自分たちと近いもんを感じるよね。ちょっとでも社会的な要素であったりとか、一般的な意味での政治的要素を感知して尻込みするようなタイプのミュージシャンに無理矢理出てもらおうなんていう気持ちはこっちにもないし。だから、(出てくれる人たちには)仲間意識が芽生えるよね。」

── PMFの時に楽屋で対面した時はどんなやりとりが。

「いや、なんか褒められまくってしまってね。でも、彼は背が高くて目付きが悪いから、いわば見下ろす感じになるわけ、俺を(笑)。“あんまり褒めると調子に乗るからその辺にしといたほうがええよ”って(笑)。最上級の評価をもらって、あれは嬉しかったね。」

── PMFの後に闇鍋(SFUの対バンツアー)に誘ったと伺いました。

「声はかけたんやけど、ちょうどブルーハーブがレコーディング期間やったみたいで、実現しなかったけどね。」

観る側が意外に感じる対バンっていいよね

── 彼らと対バンをしようと思った部分は?

「志しみたいな部分やね。一緒にやるとこっちも刺激をうけるからさ。ジャンル的に似た者同士が集まってやるよりは、普段あまり混ざり合わない人らとやった方が面白いやん。まあ、俺らと『近いジャンルの人』って何なのか分からんけど(笑)。特に、観る側が意外に感じる対バンっていいよね。」

── 過去にHIPHOPのミュージシャンとの対バンはありますか?

「イベントとかやったらあるけど、ツーマンは初めてかな。でも、ブルーハーブのライブのストイックな雰囲気からすると、俺みたいなんは叱られるんちゃう?(笑)。」

── 普段HIPHOPは聴かれますか?

「初期のオールドスクールの頃は、聴いてたよ。パブリックエネミーやRUN DMCだとか、最初期の。俺は元々ブラック・ミュージックの人やから、当時、アフロ・アメリカン、ブラック・アメリカの音楽を当たり前のように「これは聴かなアカンもんやろ」というノリで聴いてたんよね。ニューエスト・モデルの頃。ただ、それ以降は聴くものが増えちゃってね。」

── 日本のHIPHOPに関しては

「今となっては、世界中にネイティヴ言語のロックがあるように、世界中にネイティヴ言語のHIPHOPがある。何の違和感もなく日本のHIPHOPをポピュラー・ミュージックとして聴くようになったけど、90年代前半の頃は、当時の俺の音楽の方向性と構造のベクトルが逆になってたんよね。俺の場合、80年代、洋楽ばっかり聴いてきて、ソウル・ミュージック、ロックンロール、パンク…、そういう音楽の「入れ物」をバンドとして作ると。ところが自分の喋る母語は日本語、関西語。普段喋ってる言語で歌うわけやね。「入れ物」は海外産リズム、…しかもかなり米英に限定されてた…、であるにも関わらず、唄に関しては自分が喋ってる言語やと。で、その言語には本来の根源的なリズムがある。だから、あくまで当時の感じを言うと、日本のHIPHOPの場合、普段喋ってるリズムと違うリズムでいきなり日本語をそこに当てはめていく、ということになった。
俺はニューエスト・モデル末期の頃に、逆のベクトルに向かったんよね。自分が喋ってる母語、そこから出てくるリズムで音楽をやりたいと思った。これは当時、大きな命題やった。ちょうどそんな時期に、沖縄民謡、朝鮮民謡、アイヌ民謡にはまってたから、自然と日本の民謡の方にも向かっていった。明治大正期の壮士演歌であったり。そこに外来のジャズやラテンが混ざり始めた頃の戦前戦後の流行歌、とか。だから、日本のHIPHOPに関しては、嫌いとかいうことでは全然なくて、当時、興味のベクトルが逆やったから、聴かなくなっていったという感じやね。今となっては、デスクワークの時、ECDをBGMにしてるし、時間があれば、世界各地の色んな言語のHIPHOPをゆっくり聴いてみたいね。」

── 久しぶりの新宿ロフトですが、昔のロフトには結構出てたと伺いました。

「80年代。小滝橋のロフトの時代はほんとにお世話になった。大阪でバイトを終えて、夜中、車を走らせるわけよ、東京に。で、午前中に着いて数時間仮眠すんねん、車の中で。新宿ロフトの前に車停めて。で、ライブやって打ち上げやって夜中に車走らせて大阪に帰る。あれは若くないと出来ないね(笑)。」

── その頃の新宿ロフトでの思い出などあれば聞かせてください。

「とにかく飲んでたな。常に誰か喧嘩してたし(笑)。ホンマそんな感じやった。遠い目になるな〜(笑)。でもおもろいよ。10年20年して、めっちゃ喧嘩してた奴らと再会して、なんかええ酒飲めたりするという(笑)。当時はバンド・マン、みんな個性的やったしね。」

── 今回の対バンに向けてのお気持ちを聴かせて下さい。

「お客さんも一緒に作り手になるような、刺激的な一日にしたいね!」

 

ILL-BOSSTINO(THA BLUE HERB)編
あの名前は一生忘れねえ

── SOUL FLOWER UNION(以下、SFU)を知ったのはいつ頃ですか?

「中坊くらいの頃にニューエストモデル(SFUの前身のバンド)は聴いてて、それからタイムラグがあってSFUを知って。00年のフジロックでSFUがグリーン(ステージ)の3日目の最後をやったことがあって、その時に通りかかって観て。それが最初だね。
そのあと“ああ、ニューエストモデルの人だったんだ!”って気づいたり、(社会的な発言や阪神淡路大震災などでの)活動のことを知って、そういうことをやってる人たちがいて、その人たちをサポートしてる集団があって、それがコミュニティとして存在してるんだというのは、沖縄のPMF'10(ソウルフラワーのメンバーも実行委員になっていた、沖縄の辺野古で行われたフェス「Peace Music Festa'10」)の時に初めて知ったんだよね。もちろんいろんなこと発信してるのは前から知ってたんだけどね。自分の目で見て聴いて感じたのはその時初めて。今でこそ原発だとか、俺らの世代の人間たちがなにか発信してて。今はそういう時代なんだけど、でもそれよりもずっと前からそういうことに敏感に気づいて、それを音楽で発信してたというのはリスペクト以外にないね。」

── PMFの少し前に“MISSION POSSIBLE”名義でB.I.G. JOE、Olive Oilと沖縄のことを歌った楽曲を出しましたが、そのきっかけは。

「普通に生きてりゃ誰だってそこに目が行くでしょっていうことなんだけどね。誰も知らない問題を取り上げたつもりはないしね。あのときはちょうど政府も迷走しているときで、ここで一発かましてやろうぜって感じで出したんだよ。別に新しいことやったつもりはないんだけどね。」

── その後、広島のFESTA de RAMAの時に一緒になったんですよね。

「あの時はあの人たちが最初に演って、その後が俺らだったんだけど、あまりにもSFUが凄すぎて俺もヤられちゃって。その後やることやったけど、自分の中ではSFUに負けたと思った。ま、勝ち負けが全てじゃないけどね。ライヴをこれまで何百回もやってんだけど、その中で二つしかない大敗北の一つだね。だからもう絶対忘れない。俺、全然知らなくて、舐めてたわけでもなくて、知らなかった俺がなんていうの、無知だったっていうか。ネガティブな意味じゃなくて、あの名前は一生忘れねえ。一生あの人等の後には演らねえって思った。
俺40(歳)なんだけど、40っていうとHIPHOPの中では割と年上の方に入るから、先輩の音楽とか先輩のライヴを観て学ばさせてもらうとか、ヤられるだとかっていうことはなかなかないんだ。俺たちはそういう世界から飛び出したんだ。こっちの畑に出ればもっと凄い実力者たちがたくさん居るから。ライヴで生きてる人たちが。それでもそこで実際ガツンとヤられるっていう経験はなかなかないからね。だから傷は深かったけど、今となっては大事な肥やしになってるよ。」

与えられた時間の中で理屈を突き抜けるところまで必ず持っていく

── 今回、対バンを受けるときの条件などは何かありましたか?

「いや、SFUはもう無条件でしょ。条件としては俺らを先に演らせろよぐらいなもんで(笑)。なんかね、中川さんがどう思うか分かんないけど、俺らのライブって、やっぱ理詰めなんだよね。理屈を並べ立てて理屈じゃないところまで突き抜けたい。最終的にはシンプルに、愛だったり、平和だったり、団結であったりとか。でもやっぱそこに行く過程というのは俺の場合楽器じゃないから、言葉しかないから。やっぱどうしても言葉イコール理屈を詰めていって詰めていって、その最後にどうやってそこじゃないところに突き抜けさせるか。一番簡単な言葉のところまでどう持っていくか。そのために、難しい言葉だとか例えだとか、無数の言葉を投げかけるわけ。で、俺から見ればだけど、やっぱSFUの音楽は理屈じゃねえんだよ。なんていうか理屈じゃないところで勝負してる感覚が強いっていうか。そういうこと言ったら、本人たちが目指してるところと違ったら失礼な話かもしれないけど。でも俺自身、なんとなく肌で感じるものとして理屈じゃないんだよっていう雰囲気を感じるっていうか。もちろんシリアスなメッセージも受け止めた上でね。頭で考えるよりも身体に直接クる。腰にクるっていうか。理想としては俺らみたいな音楽が来て、与えられた時間の中に理屈を突き抜けるところまで必ず持っていくから、あとはそのまま理屈じゃないところでお願いしますって。そうすればお客ももっと楽に踊れるし、パッて突き抜けられて、同時に俺らの時間の理屈も繋がってるわけだし。そういう意味でも凄い大事なんだよ、順番っていうのは。誰が人気あるとか、キャリアじゃなくて。純粋にお客のことを考えたときに、俺はやっぱそうなるよ。それくらいかな、俺の条件は。」

── 新宿ロフトでのライブは2004年の年末以来ということですが、新宿ロフトで覚えてるエピソードなどありますか。

「やっぱ今はリキッドの東田(前新宿ロフト店長)含め、ロフトがあの時代俺らをずーっとサポートしてくれた箱。だからワンマンも対バンも何回もやってる。ある意味一時期はそこがホームだったよ。はっきりそう思ってたよ俺は。中坊、高校の頃にバンドやってた俺からすれば、いわゆる凄い歴史のある箱なんだけど、その頃(2002〜2004年)は間違いなくそこは俺らのホームちゅうか。そういう感覚を正直持ってたよ。いろいろ勉強させてもらった。」

── 久しぶりのロフトですが、意気込みなどは。

「いつも通りやるだけだよ。別にロフトだからどうのっていうのはもう今はない。どこでも同じようにやる。ちゃんとやる。それだけだよ。SFUの音楽聴いてる人たちにもちゃんと何か伝えられるような、残せるようなライヴをやりたいと思ってるよ。」

 

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LIVE INFOライブ情報

新宿ロフトPresents「A day in the life」
10月12日(金)新宿LOFT
ソウル・フラワー・ユニオン / THA BLUE HERB

OPEN 18:00 / START 19:00
ADV 4,200 / DOOR 4,700
高校生チケットADV 2,100 / DOOR 2,300
PIA(Pコード:180-396)・LAWSON(Lコード:71348)・e+・LOFT発売中
(問)新宿LOFTホームページ、または03-5272-0382まで
 

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