合言葉は「ブルースばやろうぜ!」
1975年6月、ファースト・アルバム『有頂天』をテイチクレコード/ブラックレーベルから発表してから今年でデビュー35周年を迎えるサンハウス。これを記念して、CD7枚+DVD1枚から成る驚異のBOXセット『THE CLASSICS』がメンバー監修の下で発売されることになった。
バンドの胎動期は、日本にGS旋風が巻き起こっていた60年代末期にまで遡る。まだライヴハウスやディスコもない時代、欧米のロックに感化された若者が見よう見まねで音楽を体現するにはダンスホールと呼ばれる喧噪の渦巻く場所で唄い、演奏するしかなかった。しかも、ただひたすら楽しく踊れればいい、ナンパさえできればいいという音楽にはまるで無関心の客に向けて演奏するのである。
彼らが生まれ育った福岡市博多区には当時、"赤と黒"、"慕情"、"美松"、"ラ・セーヌ"といったダンスホールがひしめき合っており、後にサンハウスのメンバーとなる面々も個別にそういった場所で数多くの制約を受けながらも音楽に興じていた。客に受ける表向きのレパートリーを披露しつつ、こよなく愛するブルースに根差したロックをその合間に挟み込む。好きな音楽をバンドでやるためにはそんな選択肢しかなかったのである。"菊"こと柴山俊之(vo)は"キース"として、鮎川 誠(g)は篠山哲雄(g)と共に"アタック"として、浦田賢一(ds)は"サンジェルマン"として、奈良敏博(b)は"リリーズ"として、それぞれダンスホール界隈で名を馳せていた。
バンドの結成は1970年12月。その年の夏に邂逅した柴山と鮎川は篠山に声を掛け、「ダンスホールじゃできんブルースばやろうぜ!」を合言葉に意気投合。ドラムに浦田を誘い、本格的にバンドを始動させた。ジョン・メイオール、クリーム、アルヴィン・リー率いるテン・イヤーズ・アフター、ポール・バターフィールズ・ブルース・バンド...すでにビートルズなき後、当時はブルース・ロックが最先端を行く音楽だったのである。バンド名は戦前から活躍していたデルタ・ブルースの父、サン・ハウスにあやかった。これは、ジェスロ・タルが18世紀に実在した農学者の名前から命名したスタイルを踏襲している。
ベースは流動的だったが、当時の福岡で2大バンドのひとつだった"バイキング"から浜田 卓を迎え入れ、サンハウスは第1期黄金期と呼べる布陣が揃った。それでもバンドが演奏するのは依然ダンスホールが主体であり、辛酸を舐めつつも愚直なまでに演奏活動に邁進。マディ・ウォーターズやエルモア・ジェイムス、サニー・ボーイ・ウイリアムソンといったレパートリーで構成されていた当時のライヴは、すでにコピーの域を脱していたと言われる。ビートルズにおけるハンブルグ時代のようなこの鍛錬の時期を経て、バンドは福岡でも屈指のライヴ・バンドとして成長を遂げていく。
1971年10月に九州大学教養学部学館で行なった"ロック・コンサート"、1972年5月に行なった初のワンマン・ライヴ"サンライズ"、浜田と入れ替わり奈良が加入して初のライヴとなった1973年3月の"サンハウス・ショウ"といったエポックと言うべきライヴを次々と成功させていったものの、1974年2月に浦田が音楽性の相違を理由にバンドを脱退(後に"ショット・ガン"としてデビュー)。だが、サンハウスの本格的な躍進は"鬼平"こと坂田紳一が加入してから始まる。
柴山と高校の同級生だったトメ北川(元ハプニングス・フォー)が在籍していたトランザムと共に"ファースト・ステップ・コンサート"を九州各地で展開した後、1974年8月には福島県郡山市で開催された"ワンステップ・フェスティヴァル"に出演。キャロルやサディステック・ミカ・バンド、ウエストロード・ブルース・バンドといった総勢30組以上の日本のミュージシャンに加え、アメリカからはオノ・ヨーコも参加した当時の日本最大級のロック・フェスティヴァルである。ここでサンハウスは生粋のライヴ・バンドとしての才を遺憾なく発揮し、翌年のレコード・デビューへと弾みをつけるのだ。
1975年1月に『地獄へドライブ c/w キングスネークブルース』をDレーベルから自主制作盤として発売し、同年6月に『有頂天』を発表した直後に日比谷野外音楽堂でデビュー・ライヴを敢行。年末にはトランザム、中山ラビと共に"ブラック・ツアー"と銘打った初の全国ツアーを展開し、その名を各地で轟かせた。ユーミンやティン・パン・アレー系のミュージシャンが台頭するニュー・ミュージック全盛の時代に『有頂天』は1万枚を超えるセールスを記録したというのだから、サンハウスが如何に健闘していたかが判るだろう。
今なお衰えぬサンハウスの魅力とは
1976年5月にはゴダイゴ、CHARと共に全国20ヶ所に及ぶツアーを繰り広げ、翌月には渾身のセカンド・アルバム『仁輪加』を発表。『爆弾』、『あの娘に首ったけ』、『あて名のない手紙』といった傑作が数多く収録されていたにも関わらず、セールスが今ひとつ振るわなかったのは今もって謎だが、欧米でロックの世代交代が始まっていたことも背景の一因としてあったのかもしれない。前年にニューヨークで産声を上げ、イギリスの反社会的な労働者階級が広めたパンク・ミュージックが時代の潮流として席巻していたのだ。鮎川がドクター・フィールグッドの『ダウン・バイ・ザ・ジェティ』に大きな衝撃を受けたのもこの頃である。時代は刻一刻と変革期を迎えようとしていた。
そんな変革の波と呼応するかのように、1976年12月にはオリジナル・メンバーの篠山が、翌年秋には坂田と奈良が相次いで脱退。篠山の脱退によって2人分のギターを弾くことになった鮎川は、後のシーナ&ザ・ロケッツの原型ともなるダブルリックなギター奏法を確立するのだから、まさに瓢箪から駒である。また、注目すべきは当時の柴山がラモーンズに感化され、篠山の抜けた4人編成に意欲を見せていたことだ。だが、坂田と奈良という鉄壁のリズム隊が脱退した痛手はあまりに大きかった。モッズの結成時のメンバーだった川嶋一秀(ds)と浅田 孟(b)、田舎者で活躍していた坂東嘉秀(g)を新たに迎え入れ、バンドは再始動して上京を果たす。フロアに潜水艦のオブジェがあった頃の新宿ロフトや屋根裏といったライヴハウスでパンキッシュなライヴを展開していたのもこの時期だ。
だが、結局この新生サンハウスは僅か数ヶ月の短命に終わってしまう。バンドの進退について、最初に切り出したのは鮎川だった。バンドが終息に向かっていたのは柴山も察していたようで、ライヴ・アルバム『DRIVE』の発売日である1978年3月25日に解散を決意。ただし、これはあくまで自然消滅であり、柴山によると「またそのうちやることもあるかもしれないし、とりあえずここでいっぺん終わりにしよう」といった程度のものだったらしい。
その言葉通り、サンハウスは1982年12月31日に新宿ロフトで行なわれた企画ライヴで突如として復活する。ただしこの時は、柴山、鮎川、川嶋、当時ルースターズに在籍していた花田裕之という布陣だった。翌年正式に再結成を果たし、柴山、鮎川、奈良、浦田という顔触れで全国4ヶ所でライヴを敢行、日比谷野外音楽堂でのライヴは『CRAZY DIAMONDS〜ABSOLUTELY LIVE』として作品化もされた。
解散からすでに30年以上が経過しているにも関わらず、サンハウスは日本のロック黎明期における伝説のバンドとして年を追うごとにその評価が高まっている。それは解散後に発表されてきたライヴ音源や未発表音源集、ベスト・アルバム、ブートレッグの数の多さからも窺えるだろう。
はっぴいえんどが確立した日本語によるロックを肉体化した功績、他の追随を許さぬステージ・パフォーマンス、鮎川のソリッドなギター・ワーク、柴山のダブル・ミーニングを多用した歌詞...サンハウスの魅力はあまたあるが、今なお圧倒的な支持を誇るのは何故なのだろうか。『THE CLASSICS』のブックレットにある最新ヒストリー・インタビューの中で、柴山はこう語っている。
「早い話、楽曲がずば抜けていいからだよ。それに尽きるね。マコちゃんも前から言いよるけど、俺もシングルが10曲入ってるようなアルバムを作りたいんだよ。今でもそういう理想があるんやけど、それが一番いいと思う。サンハウスではそれができたし、だからこそ今も支持してくれる人がいるんやないかな。レコーディングせんかった曲もあったけど、駄曲はなかったからね。"この曲はもういいや"っていうのが全然なかったし。生意気を承知で言えば、マコちゃんと俺の関係はジャガー=リチャーズやレノン=マッカートニーみたいなソングライター・チームに近かったのかもしれない」
1998年9月に発表されたBOXセット『ROCK'N BLUES BEFORE SONSET』に付随した再結成ツアーに続き、今年の5月には今回の『THE CLASSICS』発売を記念して12年振りに柴山、鮎川、篠山、坂田、奈良という往時の布陣が集うサンハウス。若いロック・リスナーには是非この千載一遇の機会に不朽のロックンロールを体感することをお勧めしたい。(text:椎名宗之)