Rooftop ルーフトップ

INTERVIEW

トップインタビュー【復刻インタビュー】東京ダイナマイト(2007年11月号)- 2時間半くらいひと言も言葉を発しなかった

【復刻インタビュー】東京ダイナマイト(2007年11月号)- 2時間半くらいひと言も言葉を発しなかった

2007.11.01

2時間半くらいひと言も言葉を発しなかった

──東京ダイナマイトっていうのは、もともと二郎さんが他の相方さんとやっていたわけですが、一回それを解散した後、松田さんの方からコンビを組もうと声をかけたということですけど、出会いっていうのはどんな感じだったんですか。

松田:もともと僕の方は、名古屋にいる時から前の東京ダイナマイトを見に来てて、上京した頃はトンパチ・プロがちょっとブームで下北タウンホールでチケット取れないくらいになってたんですよ。それから、先に青木さやか(名古屋時代に松田と一緒のユニットでも活動していた)が二郎さんと知り合って、青木から紹介されたのが最初ですね。

二郎:青木さんとはライブでよく一緒になってたんですけど、名古屋から来てるって言ってたのに、あるライブの次の日に、当時俺が住んでた中野で会ったんですよ。なんで中野にいるんだろうって思ったら、「彼氏がこっちにいて、自分も今度こっちに出てくるんだ」って言ってて。それから時々家の近くで会うようになって、交流を持つようになりました。その頃は俺も、前の東京ダイナマイトはもう終わらせてて、トンパチ・プロの社長業が中心で、ユニットみたいな感じで活動してたんですけど。それで、青木さんに「何かあったら連絡してください」って連絡先を教えたら毎日のように電話してくるようになったんですよ。「出られるライブないですか」とか「どんなライブに出ればいいんですか」とか。その頃、鳥肌実とか芸人仲間がみんな中野に住んでたんでよく遊んでたんですけど、その流れで青木さんの家に遊びに行ったときに、「松田も呼んでいいですか?」みたいなことになって。でも、来てから2時間半くらいひと言も言葉を発しなかったですけどね。

──青木さん的には、松田さんを二郎さんに引き合わせよう、みたいな気持ちもあったんですかね。

松田:どうだったんですかね。

二郎:イヤ、あの時ちょうど松田から青木さんに「何やってるの?」みたいな電話がかかってきて、「二郎さんが家に来てるけど」って、それで「俺も行きたい」みたいな流れだったような気がするよ。

──自発的に来てるんじゃないですか、何でしゃべらないんですか。

松田:いやあ、やっぱり観てる側だったんで最初は何をしゃべったらいいんだっていうのもありますからね。

二郎:俺とは2時間半しゃべれなかったし、(ビート)たけしさんとは未だに6年間ひと言もしゃべれてないですからね。

松田:そうですねぇ……。

まだ伸びる余地があるヤツの方がいい

──松田さんとしては「コンビでやりたい」っていう気持ちはあったんですか。

松田:そうですね、もともとピンでやる気はなかったんですよ。ずっとコンビをやりたいとは思ってたんですけど、相方が見つかるまで何もやらないっていうのもアレなんで、その間ピンでやってたというだけで。

二郎:俺の方も、ユニットじゃなくってコンビでもう一回やりたいとは思っていたんですけど、相方を探そうという時にピンでやってる人に声をかけるっていうのはあんまりないんですよね。やっぱりこっちからすれば、「この人はピンでやっていく人なんだろうな」って思ってるから。松田からしても、俺はもうユニットやってたし、社長業もやってるし、ライブのプロデューサー側だったから声はかけづらかったと思いますよ。でも話を聞いていくと「東京には相方を探しに来たんだ」って言うんで、ああそうなんだと。まあ、実際に組むまでにはそこから1年半くらいかかりましたけどね。

──二郎さんは、松田さんのピンのネタを観ていてどう思っていたんですか。

二郎:俺はライブを主催してたんでプロデューサー的な立場で観てたんですけど、まあ面白いなとは思ってましたね。すっごい面白いというほどではなかったですけど。やっぱり俺も20代前半だったんで、同業者を見ててもほっとんど面白くないんですよ。その中で、松田はちょっと「おっ」と思いましたね。まああの頃、俺的に引っかかってたのは松田大輔と猫ひろしだけなんですけどね。

──まあ、猫さんとコンビを組むっていう方向はないですよね。

二郎:猫は、ずっとコンビでシュールなコントがやりたいって言ってたんですけど、それを辞めさせてピンにして、名前も「猫ひろし」にして、意味不明なことをやらせるっていう方向でプロデュースしましたからね。猫はホントに色んな相方を連れてこようとしてたんですけど、プロデューサーとして見るとピン芸でしかありえないだろうと。それは本人としては不本意だったみたいだし、猫ひろしっていう名前もイヤだったみたいですけどね。

──そこで松田さんから声もかけられ、こいつがいいんじゃないかと。

二郎:松田もまだまだっていう感じはあったんだけど、コンビを新しく組むなら、その時点でものすごく面白いというよりは、まだ伸びる余地があるヤツの方がいいと思うんですよね。自分もまだ修行中の身だし、お互いに伸びていこうと。

松田:最初の出会いはそんな感じでしたね。

──この2人での東京ダイナマイトをスタートさせたのがいつ頃なんですか。

二郎:2001年の年末ですね。その前にトンパチ・プロも解散させて。

──それは、このコンビの結成を見据えてっていうことだったんですか。

二郎:うーん、まあ当時はもうトンパチはみんな仲が悪かったんで、それを一番年下の俺がまとめるっていうのも意味がないことかなって思ってもいたんですよね。結局、自分への反省をしないで環境ばっかり恨んで、自分の努力なさ、人気のなさを顧みないメンバーばっかりだったんで。だから俺はもう松田とだけやろうと。まあ、解散する前に猫だけは呼んで、そのことを話しておいたんですけど。結果どうなったかといえば、俺と松田と猫しか金儲け出来てないからね、今。その時に気付いて良かったですよ。

──他人をプロデュースするよりは自分のためにやっていこうと。

二郎:そうですね。まあライブをプロデュースするよりは、自分をプロデュースしていこうっていうことですよね。トンパチ・プロを辞めようって決心したのって、ニューヨークにひとりで行った時なんですよ。みんな仲悪いし、仕事の文句は全部俺に来るしでイヤになってて。でも、ニューヨークの通勤ラッシュで、みんながこっちに歩いてくる中、俺だけ逆の方を向いて立ってたら、誰も俺のことなんか知らないんだなって思って。俺が社長だからどうこうって思ってたところで、誰も知らないし、何でもないことなんだからもう辞めてしまえと。で、帰ってきた次の日のライブにはゲストを入れずに、松田と猫しか呼ばないでプラスワンで解散ライブ(2001年10月23日)をやったんですよ。まあ、その時に色々とゴタゴタがあったんで、本当はもうプラスワンでは二度とやるまいと思ってたんですけどね。

──あ、そうだったんですか。でも今もイベントをやってもらっているわけですけど、そこの心境の変化って何かあったんですか。

二郎:横山さん(元・ロフトプラスワン店長)がオファーしてきたからですね。

──ああ、デリカシーなく(笑)。

二郎:俺としては断っても当然だったんですよ。だって二度と出たくなかったんだから。でも、俺がもう一段グレードを上げるにはこのオファーを受けて、ライブでチケットをソールドアウトするまでやった方がいいんじゃないかって思ってやることにしたんですよね。……そしたら今度は横山さんがプラスワン辞めちゃったじゃないですか!

松田:「これからもよろしくね」って言って辞めちゃったから(笑)。

二郎:何が「よろしくね」だよと(笑)。

──まあ、メチャクチャな店ですからね(笑)。

二郎:まあ、横山さんが辞める前にチケットを即日完売出来たんでね。

──そこはやっぱり「やったぜ!」みたいな?

二郎:いや、そんなのは1ページに過ぎないですね。

──通過点のひとつだと。活動していく上で、そういう風に常に目標を設定して、それをクリアしていくっていうタイプなんですか。

二郎:全部そうですよ。テレビにも大して出てないのに勝手に日比谷野音でやって、無理だと言われながら次もやって、その次もやって……って満員になっていったりとか。

──さらには単独ライブで「SS席5千円」っていう席を設定したりっていうのもありましたね。

二郎:あれは事務所が最後までダメだって言ってましたからね。でも結局一分で売り切れたっていう。シアターアプルみたいな900席もあるような会場で、一列目と一番後ろの席が同じ値段だっていうことの方が差別してると思うんですよ。前で観たい人は高いお金を出すことによって、自分が前の席に行けることを保証できるっていう方が当たり前なのに。だから、みんな遅れてるんですよ。

このアーティストの関連記事

D-Generation X

PCBP-11568 / 3,990yen(tax in)

amazonで購入

休刊のおしらせ
ロフトアーカイブス
復刻