"φ"(空集合)="何処にも属さない""誰にも似たくない"姿勢を最後まで貫いた日本のロック史上最高峰のバンド、BOφWY。1987年12月24日、渋谷公会堂(当時)で放たれた衝撃の解散宣言から20周年を迎える今年、全力疾走で駆け抜けた7年間の軌跡を凝縮した2枚のベスト・アルバムが発表される。『THIS BOφWY DRASTIC』『THIS BOφWY DRAMATIC』と題された本作、『~DRASTIC』はビートの効いたハードな楽曲を中心に、『~DRAMATIC』は芳醇なメロディに溢れた楽曲を中心にそれぞれ構成され、レーベルの垣根を超えて選曲された初のパーフェクト・ベストであることも注目に値する。各盤には新たに編集されたPVやライヴ映像が収録されており、楽曲同様にヴィジュアル面での鮮度も全く古びていないことに驚く。そして、どちらの盤でもエンディングを飾る「DREAMIN'」に込められたポジティヴなメッセージは2007年の今なおリアルに僕達の胸を打つ。まるで差し込む光によって表情を変える水面の如く、新たな発見を提示し続けるBOφWYの歌の力──革新性と普遍性が共存したその魅力について、元メンバーである松井常松と高橋まことにそれぞれ話を訊いた。(interview:椎名宗之)
BOφWY時代に培われていった音楽性の土壌
──あの解散宣言から20年が経過した現在の心境から聞かせて下さい。
松井:BOφWYとしての活動期間は、オリジナル・アルバムを僅か6枚しか発表しなかった短い時間だったわけでしょう? その後に発表してきたソロ・アルバムのほうが作品の数は多いし、キャリアも当然のことながら長い。でも、不思議なことに余りそういう実感が湧かないんですよ。それがBOφWYの重みなのかなと思う。自分にとっても凄く多感な時期でしたからね。
──BOφWYのメンバーとして過ごした7年間は、松井さんにとってまるでスポンジの如くあらゆる物事を吸収するような時期でしたか。
松井:それもありましたね。自分で曲は作っていなかったから、布袋(寅泰)君が作ってくる曲を吸収していた感じはあった。布袋君は曲を作るペースが凄く早くて、いろんなタイプの曲を持ってくるんだけど、デモの段階で8割以上は完成しているんですよ。それをみんなで再現していく形が多かった。ベースのリフもそのデモの段階ですでに完成していて、“自分ならこう弾くのに”なんて思う余地が全くないほどでね。そういった曲作りを通して、自分の音楽性の土壌が培われていった部分はありますよね。だから、自然と布袋君のコード感が身に付いているんだろうし、今思えば音楽的な基礎となる部分をBOφWYから吸収していたんだと思う。
──ARBやアナーキー、ルースターズなど、BOφWYと同時期に新宿ロフトをホームグラウンドとして活動していたバンドは多々いましたが、何故BOφWYだけが短期間のうちに渋谷公会堂から日本武道館、果ては東京ドームまで登り詰めることができたのだと思いますか。
松井:一番違うところは、ロフトが最終地点だと最初から考えていなかったからでしょうね。もちろん、初めてロフトに出た時は凄く嬉しかったけど、ロフトでずっとライヴをやれたら幸せとは思っていなかった。ロックに対する解釈は人それぞれで、一生ライヴハウスでライヴをやり続けることがロックだという人もいれば、売れること自体がロックじゃないという人もいる。ただ、BOφWYはそういう解釈をしていなかった。もちろん、どちらの解釈が正しいということではなくね。ロフトで思い出すのは…あの市松模様の床と楽屋の汚い落書き。僕達も諸先輩方の隣りに落書きできたのは嬉しかったですけどね。ロフトでやっていた頃のライヴは凄い熱気に包まれていて、何が起こるか判らない怖さ、ちょっと大袈裟に言えば決死の覚悟みたいなものがいつもありましたね。他のメンバーは判らないけど、僕はそう感じていた。この一本のライヴで何かを掴まなくちゃいけないという意識を氷室(京介)君も布袋君も常に抱いていたんじゃないかな。
──解散から20年を経た今でもBOφWYがこれだけ絶大な支持を集めている理由はあまたありますが、楽曲の持つ力に因る部分が凄く大きいと思うんです。そのことを今回発表される2枚のベスト・アルバムを聴いて改めて感じたんですよね。
松井:そうかもしれない。たとえて言うなら、安くて美味しい定食屋から最高級のフランス料理店までを熟知したようなバランス感覚が氷室君にも布袋君にもあったんです。そのバランス感覚を養いつつ、BOφWYは目まぐるしいスピードで成長していったんですよ。初期の頃は早いパンク調の曲をやるのが精一杯だったけど、そこに特化することなく新しい要素を貪欲に採り入れて、音楽的な進化を遂げていった。フロントの2人には常に終着点がなかったんです。いつも高い理想を持ち続けていて、何かひとつ目標を達成したら、次の日にはまた違う目標に向けて走り出す。そういう志の高さがバンドのスタイルと楽曲の着実な進化を促進させていった。根底にある変わらないものは、ヴォーカル、ギター、ベース、ドラムという必要最小限の編成で、そこがバンドの骨太な部分を形作っていたと思いますね。レコーディングでどれだけ最新のテクノロジーを使えても、この4人にできないことには手を出さない。基本は必ず4人の生演奏だったんです。そういう不動な芯の部分があったからこそ、音楽的な変化にも柔軟に対応ができた。
──たとえば、メロディに重きを置いたナンバーが収録された『THIS BOφWY DRAMATIC』を聴いても、サウンドの変遷はありながらも核となるメロディの秀逸さは一貫しているのがよく判りますね。
松井:個人的にはアレンジの部分が凄く重要だったと思うけれど、メロディの良さに徹することの重要性を氷室君も布袋君も早い段階で気が付いていたんじゃないかな。
──『~DRASTIC』と『~DRAMATIC』はどちらもお聴きになりましたか。
松井:2枚ともザッと聴かせてもらったけど、『~DRASTIC』の中で言えば初期の頃はULTRAVOXとか海外のバンドからの影響が窺える中で、「DOWN TOWN SHUFFLE」では完全にオリジナリティを確立していると思った。僕自身、ベーシストとしてやりたいことがあの時点でちゃんとできていたんだと思ったし、他の何物でもない、徹頭徹尾BOφWYの音楽だなという高い完成度を感じましたね。BOφWYはここまで行けたんだなと。ベーシストとしては、その後に発表した自分のアルバムも含めて「DOWN TOWN SHUFFLE」を超えている曲はないとすら思った。こんな曲が『BEAT EMOTION』の段階で出来ていたわけだから解散してもおかしくないと思ったし、『BEAT EMOTION』でBOφWYサウンドの基本型が確立された気がする。きっとあの後は何枚もオリジナル・アルバムを作っていけたはずだし、いろんなことにトライできたはずですよ。でも、BOφWYは敢えてその選択をしなかったし、変な言い方になるけれど、バンドがちゃんと終われていたんだなと今は思いますね。
仲間と遊んでいる延長線上にBOφWYはあった
──当時、松井さんのようなスタイルのベーシストは他にいませんでしたよね。
松井:僕はコンコン鳴る硬い音が好きで、弦のテンションもこの上なく強くして、一番硬い音が出るブリッジ寄りで弾いていたんです。普通の人なら、余り左手を動かせないようなテンションだった。だから、他の人が僕と同じフレーズを弾いても手強さが全然違うと思う。あと、早い8ビートをダウンピッキングでルート弾きするのが僕の代表的なスタイルだと捉えられているけど、そうじゃない曲も結構あるんですよ。8分音符をずっとダウンで刻むのは、陸上競技で言えば800メートル走みたいなものかもしれない。でも、僕が弾いていて面白かったのは、800メートル・ハードル走みたいな障害物のあるものでしたね。それが「DOWN TOWN SHUFFLE」だったりするんですよ。一番やりたかったのはああいうプレイで、それがかなりの精度でできている。そんなふうに言うとその後のキャリアで胡座をかいているように受け止められかねないけど、ベーシストとしての松井常松があの時点で確立されていたのは確かですね。
──ファースト・アルバムの『MORAL』からラスト・アルバムの『PSYCHOPATH』まで僅か5年半、短期間のうちに飛躍的な成長を遂げたあのスピード感たるや凄まじいものがありますよね。
松井:あのスピード感は、布袋君独自のものなんですよ。あのスピード感が核となって強力な磁石のように周囲を引き寄せて、優秀なスタッフが集まっていろんな物事が次々とリンクしていった。時代の潮流と符号したのもラッキーだったと思うし。とにかく僕は、布袋君の作ってくる曲やアレンジを凄く面白く感じていて、その曲をみんなで一緒に演奏することが楽しくて仕方なかったんですよ。ただそれだけですよね。その場に彼らといられること自体が楽しくて仕方なかった。でも、今冷静になって振り返ると、あのスピード感に付いていくのが精一杯なところがあったんだと思う。ソロになってからの僕の活動ペースは、まず自分でちゃんと理解してから物事を進めていく感じだけど、BOφWYの頃は、一度ジェットコースターに乗ってしまったら最後までしがみ付いているしかないような感覚だった。
──そのスピード感のまま、ロフトから東京ドームまで一気に駆け上っていったんでしょうね。
松井:そうですね。ロフト時代のライヴから最後の東京ドームでの“LAST GIGS”までを観てくれたファンの視点に僕は近いと思いますよ。それは今だから客観視できるのかもしれない。バンドの中にいた時は冷静に見られていなかったですからね。僕が今やっているライヴに来てくれる人達と話をしていると、「自分の人生はBOφWYで変わった」という言葉を掛けてくれる人がいる。散々悪さをして自暴自棄だった10代の頃にBOφWYの音楽と出会って、夢を抱いて立ち直ったと言う。そういうことを目の前で聞くと、やっぱり真摯に向き合わざるを得ないですよ。僕はそこまで自覚してバンドに参加していたわけではなかったし、あのサウンドの中に自分がいるのが楽しくて仕方がなかっただけなんです。でも、人生で一番多感な時期にBOφWYを吸収した人達にとって、この先どんな音楽を聴いてもBOφWYにはかなわないんですよね。それは、僕が高校生の頃にエアロスミスが地元に来て、ライヴを観て余りの衝撃に一週間寝込んでしまったのと同じようなことじゃないかな。
──今のソロ・ライヴでは、「LIKE A CHILD」や「RAIN IN MY HEART」といったBOφWY時代のナンバーも披露されていますね。
松井:自分が詞を書いた曲でもあるし、今は好きな曲のひとつとしてアコースティック・スタイルで唄っていますね。BOφWYの曲をやればみんなが喜んでくれるという気持ちもないわけじゃないけれど、それよりも単純に自分が好きな曲だからやっている。
──今振り返ると、松井さんを含めたあの4人のパーソナリティが融合して起こったBOφWYの化学変化は奇跡にすら感じますね。
松井:僕は、アマチュアの頃からスタジオ・ミュージシャンとして生計を立てていこうと思ったことは一度もないんですよ。仲間と遊んでいることの延長がBOφWYだったと僕は思う。遊びのツールとしてバンドがあった気がしますね。その仲間の中でそれぞれ役割があって、そこで僕はベースを弾いていたに過ぎないんです。ただそれが楽しかった。今こうしてベスト・アルバムのラインナップを見て思うのは、あんな短い間によくこれだけいい曲をたくさん作れたなということ。この2枚には一般的に考えられている代表曲以外にも多彩な曲が収められているし、実はそんな曲にこそBOφWYの真骨頂があるのかもしれない。「DOWN TOWN SHUFFLE」のようにね。BOφWYにはこんな側面もあったんだなという新たな発見もきっとあると思うし、そういう聴き方をしてくれたらとても嬉しいですね。