Rooftop ルーフトップ

INTERVIEW

トップインタビュー【復刻インタビュー】ムーンライダーズ(2002年11月号)- 22年振りのロフト出演は、豪華ゲストを迎えた3days!

22年振りのロフト出演は、豪華ゲストを迎えた3days!  

2002.11.01

 はっぴいえんど、頭脳警察らと共に日本のロック・シーンのパイオニアとしてその礎を築き、結成から27年を経て今なお精力的に活動を続ける前人未到・不撓不屈のバンド、ムーンライダーズ。そんな彼らが、実に22年振りにロフトのステージに立つ! しかも彼らを敬愛してやまない豪華ゲストを迎えて堂々の3days! 2002年晩秋、新宿歌舞伎町にて日本のロックの歴史に新たな一頁が刻まれる!(interview:椎名宗之)

馴染み深いロフトでライヴをやりたかった

──ムーンライダーズのような大御所バンドが、何でまた新宿ロフトみたいなところでライヴをやろうと思い立ったんですか?
 
鈴木:ハコの大小は余り関係なくて…3daysっていうのをまずやったことがないでしょう。去年は〈FUJI ROCK FESTIVAL〉に出たり、25周年のツアーをやったりとライヴ活動は活性化してたんだけど、ウチの岡田(徹)が病気になっちゃって、ムーンライダーズとしてのライヴを今年はまだやってないんだよ。去年最後のツアーも岡田抜きでやってね。他にキーボードを入れるっていう考えは全くなくて。そんなわけで岡田が病後なものだから、様子を見つつやっていかないと今年の上半期はライヴがなかなか難しかったんだ。で、秋くらいだったら大丈夫かなということで今回やらせて頂くことになったんだけど、3daysって結構過酷っちゃ過酷なんだよね。だから今ちょっと心配はしてるんだけど、今度のロフトは岡田復帰を記念すべきライヴなんです。復帰までに約1年掛かったけれど。
 まぁ、何よりロフトは馴染みもあるしね。他にもいろんな場所は考えられるけど…ふと突然思いついたというのが正直なところなんだけどさ(笑)。あと、ロフトプラスワンでやってる〈CRT&レココレ〉のイヴェントへ個人的に出させてもらってるのもあるしね。そこでたまに(平野)悠さんと会ったりして、音楽と全然関係のない話ばかりしてるけど(笑)。
 
──しかし22年振りのロフト出演というのも凄いですね。
 
鈴木:個人的にロフトへ出たのは、サエキけんぞうがやった〈DRIVE TO 2000〉(1999年10月27日)が最後だよね。回想モードは90年代の半ばでとっくになくなっちゃってるんだけど、BYG〈註1〉がまた地下でライヴを始めて、「昔と同じかどうか見て下さいよ」ってスタッフに言われて見に行ったら、全く変わってなかったわけ。まぁそんなこともあって、“またライヴハウスでライヴをやるならロフトかな”って。
 
──当時の新宿ロフトというと、まだ店内に巨大な潜水艦のオブジェがあった頃ですね。
 
鈴木:あったねぇ。私たちがロフトに出てた頃も本当にギュウギュウだったからね。確か1回は新宿ロフトで動員記録を作ってるはずだよ。当時はムーンライダーズだけじゃなくて、いろんなプロジェクトでもよく出させてもらってたけど、とにかく酸欠状態でやってたね。…だから「3daysやろう!」ってことになると、やっぱりロフトになるわけよ。せっかく3日間やるんだったら、当時よく出てたロフトがいいかなって。ムーンライダーズを結成してすぐに出てるし、ニュー・ウェイヴになってもまた出てるんだ。変化した後のロフトにも出てるわけ。マイクを逆さに吊ったりして。で、その後出てないわけじゃん? 今度は対バンもいて、そういうバンドの音を聴いてみると、私からすると“懐かしくて新しい”感じがするんだよね。どこか聴いたことがあるようでいて、確実に新しいものを持った彼らを見てると、ニュー・ウェイヴ時代のロフトに出ていた頃の自分たちを思い出すんだよ。
 
──対バンは慶一さんのチョイスですか?
 
鈴木:いや、スタッフと考えて皆で決めた。POLYSICSだけライヴをテレビでしか観たことがなくて、昨日観に行ったんだけど、音量 が凄かったね。技術的にも非常によろしいし。あと、彼らはDEVO〈註2〉みたいな服を着てるじゃない? 私たちも昔はそんな服を着てたけど(笑)、当時のニュー・ウェイヴ感とは全く違う、2002年の今っぽい80'sな部分があると思った。
 
──例えば『月面讃歌』(1998年)では若手ミュージシャンにベーシック・トラックのプロデュースを委ねたり、ムーンライダーズはいつの時代も若いミュージシャンへの目配りが行き届いてますよね。
 
鈴木:でも、それは80年代からずっとそうだったからね。水族館レーベル〈註3〉みたいなのがあって、それがメトロトロン〈註4〉になるんだけれども。その当時は彼らも若手だった。いまだに付き合いはあるけど、彼らは彼らなりにやってるわけでさ。
 
──この間出演されていた『FACTORY』(フジテレビ系列で放映)のMCでも、若手のバンドに対するコメントが凄く的確だったじゃないですか。
 
鈴木:そう? まぁ、ああいう機会はとても有り難いよね。あんな場がなければ、ともするとピーター・ゲイブリエルみたいにレコーディング作業に埋没しがちだからね。
 80年代に何でそんなに身軽だったかと言うと、例えば知り合いがライヴをやるっていうので観に行く。対バンがいる。で、その対バンもまた面 白かったりする。今度はその対バンのライヴを観に行く…って具合で、どんどんツリーみたいな状態で広がっていくわけ。知り合いが知り合いを呼んで、どんどん新しいものを吸収していけたんだよ。そのなかで面白い人たちと一緒にレコードを作っていくことができた。90年代には余りそういうことができなかったんだけどね。言わばライバルって言うのかな…ライバル心が燃えるようなことって重要だからね。どんなに歳が離れてたって、こっちは勝手にライバルだと思ってるという…。音楽を始めた頃はそうだったよね。はっぴいえんどや(南)佳孝やいろいろなミュージシャンがいて、皆いいところがあって、「じゃあ俺たちはこうしよう!」とか切磋琢磨があるわけ。私たちみたいに50歳を過ぎたようなバンドは、とかくそういうことがなくなっちゃう場合があるから、それだけは気をつけなきゃなと思ってる。
 
──変な話、シーンの重鎮として落ち着いちゃってもいいわけですからね。
 
鈴木:“上がり”っていうのが一番イヤだからね。やっぱり現場感覚を忘れたくないし。普段は洋楽のCDばかり買ってるから、割と国内の情報に疎くなりがちなので、その辺は気をつけてる。だからある時カラオケなんかに行って、“あ、この曲の歌詞いいじゃん”なんていう発見もあったりするよ。
 
“上がり”と思われるのが一番怖い
──現在の日本の音楽シーンはメジャーとインディーズの垣根が徐々に薄れつつある状況だと思うんですが、慶一さんの眼から見てどうですか?
 
鈴木:メジャーとインディーズのいっしょくたになってるところがあるとするよね? でも、いっしょくたにならないところもあるでしょう。それはメタ・メジャーっていうかさ。その辺は余り意識してないんだよね。いっしょくたになる部分は面 白いと思うけど。インディーズでCDを出してメジャーに移って、またインディーズに戻ったりすることが多々あるじゃない? しかも、メジャーのレコード会社が実はインディーズのレーベルを持っていたりすることもあるわけで。私たちの場合はずっとメジャーとの契約だったんだけど、そうやって作っていくのはやっぱりいろんな面 で限界があって…そういう時は柔軟にインディーズで出したりね。メトロトロンが一時期そういうサブ・レーベル的な役割を果 たしていたけれど、今やサブもメインもないよね。だから今度また新たに“Run, Rabbit, Run”っていうレーベルを興して、これは私のバンド〈註5〉しかいないの。このバンドのメンバーも20代、40代、50代と3世代に亘っているんだよ。
 
──ムーンライダーズのファンもすでに3世代に亘ってますよね。
 
鈴木:うん。ある世代だけがずっと追いかけてきてるわけじゃなくて、新しいファンが必ず出てきてくれる状況が凄く嬉しいし、それなりにそういうこともやってきたんだなぁという気にもなるわけだ。一番不安だったのは、バンドを5年間休んで『最後の晩餐』(1991年発表)を出した時にNHKホールでライヴをやったんだけど、“どんな客が来るんだろう?”って思ったんだよ。でもいざフタを開けてみたら、いわゆる同世代の人ばかりじゃなくて若い人も多かったんだ。それは何故かって言うと、バンドを休んでいる時に我々の音楽に触れた若い人たちが、“動くムーンライダーズを観たい”と思って足を運んでくれたんだよね。
 
──ムーンライダーズが活動を休止していた頃は、CDの再発が急激に進んでいた頃ですからね。
 
鈴木:うん、アナログからCDに移行してた時期だったからね。だから、ある世代に向けてやっているだけの音楽ではないというのが具体的に判るとやっぱり嬉しい。
 
──『火の玉ボーイ』にしても、未発表テイクが追加されてデジタル・リマスター盤が発売されたり、若い世代が例えばクラムボンの新作と同じ感覚で聴くわけじゃないですか。ムーンライダーズの生み出してきた音楽が如何に普遍性に満ちているかということだと思いますよ。
 
鈴木:そうかな。時々、作品を作っている時に煮詰まると、自分の過去の作品を聴いて“まぁそこそこやってるじゃん”なんて思うけど(笑)。それでもっと違うものを作ってやろうって気になる。音楽を作ってる人と聴く人では必ず意識が違うからね。100%満足してるわけじゃないから。だからこそ新しいものを作り続けるわけで。だからさっきも言ったけど、「この人たちは“上がり”」って思われるのが一番怖いし、イヤなことなんだよね。
 
──ロフトみたいなハコで3daysを敢行すること自体、ムーンライダーズが“上がってない”何よりの証拠だと思いますけど(笑)。
 
鈴木:(笑)。〈DRIVE TO 2000〉でロフトに出た時に、“あ、随分と小屋が変わったんだなぁ”と思ったの。まぁ歌舞伎町へ場所が変わったこともあるし、今はステージも2つあるでしょう? この3daysは2ステージではやらないけど、使いようによってはいろいろなことができるよね。
 
──ムーンライダーズが70年代に出演していた西荻窪ロフトや荻窪ロフト、西新宿にあった旧新宿ロフトは、今よりもっと牧歌的な感じでしたか?
 
鈴木:ニュー・ウェイヴ以降は牧歌的じゃなかったと思うよ。「“今”これをやるんだ!」という姿勢だった。西荻や荻窪の頃は、丁度はちみつぱいからムーンライダーズへの過渡期で、まだムーンライダーズのレコードを出してない頃からロフトに出てたんだよね。74~75年頃かな。その頃はアグネス・チャンのバック・バンドなんかもやっててさ、悠さんは私たちのことを“アグネス・チャン・バンド”なんて呼んでたからね(笑)。要するに、ザ・バンドがデビュー前にザ・ホークスと名乗っていた時期…ロニー・ホーキンスやボブ・ディランのバックを務めていた頃みたいなもんだね。バック・バンドとしての喜怒哀楽があって、ムーンライダーズとしてのサウンドをやりたいってことで悠さんのところに出させてもらってたんだ。対バンからも刺激を受けたし、凄くいい経験だったよ。荻窪、西荻、下北、新宿…何しろ全部出てるからね。どこも超満員で、酸素がなくなる記憶が一番強烈だった(笑)。
 
──当時いろんなライヴハウスに出演されていたと思うんですが、ロフトというのはやっぱり独特な雰囲気がありましたか?
 
鈴木:あったね。それは何なんだろうなぁ…店主のキャラクターもあるよね。新宿になってからは荒(弘二/当時、新宿ロフト店長)さんにお世話になって、荒さんめがけて演奏をぶつけるところもあったな。まぁそういうのはどのライヴハウスにもあるんだろうけど、ロフトに出る回数が余りにも多かったから、特に印象に残ってるのかな。
 
──今度のロフト公演は、ある種集大成的なセットリストになりそうですか?
 
鈴木:どうしようかなと今非常に悩んでるんだよね。対バンと3日間やるわけで、いろいろ模索してるよ。集大成みたいになるかもしれないし、久しく演奏していない曲ばかりやるとか、あるアルバムの曲を丸々1枚やるとかね(笑)。ムーンライダーズは本当に幅が広いバンドだから、その懐の深さを表現できればいいかなと思ってる。
 
──ムーンライダーズのように歴史の長いバンドだと、フーみたいに『TOMMY』1枚を丸々やることもできるし、ポール・マッカートニーみたいにグレイテスト・ヒッツ的なライヴもできるし、選択に迷いますよね。
 
鈴木:うん。長年活動を続けているのもあるし、余りに貪欲にいろんなものを吸収してしまったので、ムーンライダーズっていうバンドは妙な混ざり方をしてるんだよ。私たちはそれを楽しんでるけど。だから、ムーンライダーズだけをしっかり聴けば、洋楽のお勉強になるんじゃないかな(笑)。
 
──しかも、それにメンバー個々人の活動を加えたら、音楽のあらゆるジャンルを網羅することにもなりますよね。
 
鈴木:もう“モー娘。”状態(笑)。個人になるとまた趣味が違ってくるからね。だから今度のロフトは選曲には非常に悩んでるねぇ。若いバンドとやることでこちらが活性化するという意味では、少し80年代っぽい感じはしてるんだけど…。
 
──対するバンドによって選曲も微妙に変わってくるでしょうし。
 
鈴木:それもあるだろうね。対バンの持ってるイメージもそれぞれあるからね。
 
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