2006年に発表されたアナーキーのコンプリートBOX『内祝』に収録されていたドキュメンタリー『アナーキー!』が、追加撮影とアレンジを加えたリミックス・ムービー『アナーキー』として生まれ変わった。オリジナル作品は、元アナーキー親衛隊で現在は映画監督である太田達也。'81年制作の8mm映画『ノット・サティスファイド』の監督も務めた太田にしか捉えきれなかった映像とメンバーの発言は実に生々しく、日本のパンク黎明期の時代の空気や瓦解していくバンドの末路をもリアルに焼き付けた先鋭的な内容である。リミックスを担当したのは、ボアダムスの歴史的イヴェントを追った『77BOADRUM』を始め、レンチやイースタンユースのPVなどで若手ミュージシャンたちから絶大な支持を集める川口 潤。アナーキーが日本中に衝撃を与えていた'80年当時にまだ生まれていなかった今の若い世代に贈りたいという本作のコンセプトを受け、川口は今日性を念頭に置いた客観的な視点で再編集を試みている。その川口とアナーキーの仲野 茂のトーク・セッションを映画の公開を記念して企画した。ちょうど30年前に埼玉の5人の不良少年が勢いだけでバンドを組み、やがて日本のロック・シーンと社会に強烈なインパクトを与える時代の寵児となり、価値観の相違による瓦解の果てにとある"事件"が起こりバンドが失速していくまでの7年間を追ったこの秀逸なドキュメンタリー映画をめぐって、両者に語り倒してもらった。(interview:椎名宗之)
ドキュメンタリー『アナーキー!』を"リミックス"
──意外なことに、おふたりは今日が初対面だそうで。
川口:そうなんですよ。そんな僕が今回の映画に携わらせて頂いて、ホント申し訳ないくらいで。
仲野:いやいや、むしろ見ず知らずのほうが良かったんじゃないの? 余り知りすぎた関係だと、きっと編集もやりづらいだろうしさ。
川口:編集の段階で、茂さんとお会いする機会があるかもしれないと近藤さん(近藤順也:シアターN渋谷支配人)から聞いてたんですけど、結局スケジュールが合わなくて。でも、何度も顔を合わせるのもちょっと違うかなと思ったんですよね。
──妙な先入観が入ってしまったり?
川口:ええ。
仲野:それにさ、勝手知ったる仲なら「あの屋上の俺のインタビュー、要らないから切ってくれ」とか絶対に言うもん、俺(笑)。
──茂さんは、川口さんの作品をご覧になったことはあったんですか。
仲野:ないけど、レンチのプロモを撮ったことは聞いてた。それがどの曲なのかは判らないんだけど。
川口:初期の作品ですね。主に演奏シーンがあるような曲なんですけど。レンチとは彼らがインディーズの頃からの知り合いで、こういう仕事をやるきっかけになったところもあるんですよ。
──レンチの初代ドラマー、名越藤丸さんはアナーキーの再結成(1996〜2001年)に参加されていたし、遠からぬ縁を感じますけれど。
仲野:再結成の時はコバンがやれなくなっちゃって、ドラマーをオーディションしようってことになったわけ。伸一がレンチのライヴを観て、これは格好いいってことで名越をオーディションに呼んだんだよ。他にもマルコシアス・バンプのヤツ(石田光宏)とかヒートウェイヴの大島(正嗣)とかも来てくれてさ。で、その中で名越が一番ヒドかったわけ。事前にテープを渡してあったのに、曲を全然覚えてこねェし(笑)。
川口:ああ、判る気がします(笑)。
仲野:みんな自分のスネアとかを持ってきてるのに、名越はスティック3本しか持ってこねェしさ(笑)。3本って、せめて偶数ならまだ判るんだけど、何で奇数なんだ!? っていう(笑)。その奇数の理由を訊いてみようってことで名越に決まったんだよ。まァ、こっちの3人は同級で付き合いも長いし、そこにポッと入るには名越くらい図々しいヤツじゃないとダメだったんだよ(笑)。初めてのレコーディングの時も俺に対して意見してくるしさ、まるでベテランみたいに(笑)。
──川口さんも、思春期にはアナーキーの音楽に影響を受けていたんですか。
川口:いや、中高生の頃はバンド・ブームのちょっと前くらいで、アナーキーのことは実はよく知らなかったんですよ。もちろん名前は知ってたし、レパートリーの数曲は聴いたことがあったんですけど。ホントに申し訳ないんですが、この作品を作りながら好きになっていった感じなんです。
仲野:そりゃしょうがないよね。だって、バンド・ブームの頃にアナーキーはもうなかったんだから。活動してたのは、アルバムで言えば『BEAT UP GENERATION』までだしね。
──今回の映画も、時代的に追っているのはそこまでですよね。
仲野:そう、'86年までだね。
川口:'86年って言うと、僕はまだ13歳でしたから(笑)。
仲野:そうだよね。俺だって、中学1年の頃はまだロックに目覚めてなかったもん。
──まだ泉谷しげるさんに入れ込んでいた頃ですか。
仲野:うん、まだ泉谷だったね。中2になって頭脳警察を聴いて、それから外道の追っかけをやって、その後にルージュに出くわした感じだね。"ワンステップ・フェスティヴァル"('74年に福島県郡山市で開かれたロック・フェス)には引っ掛かってないんだよ、あれは俺が中1くらいの時だったから。後でNHKの番組で見たけどさ。
──今回の映画における川口さんの肩書きは、"リミックス"という余り聞き慣れないものですね。
川口:それはプロデューサー陣が命名したもので、自分から名乗ったわけではないんですけどね。監督はあくまで太田(達也)さんなんですよ。僕は"リミックス"という言葉通り、素材を全部見た上で作品を編集し直した感じですね。
仲野:4時間全部見たの?
川口:いや、もっとありましたね。撮り溜めてあった素材をほぼ全部見たので、茂さんを始めメンバーがどんな人かはそのインタビュー映像を見てだいたい理解できました。その思い描いた人物像に加えて、『心の銃』とかを読んでイメージ作りをしたと言うか。THE ROCK BANDから『内祝』までの部分はカットするという話だったので、それ以前の映像を付け足したり、アナーキーに影響を受けたいろんな人たちのインタビューをさらに付け加えてみたりして。
若い世代に見てもらうのがこの映画の意義
──ご自身で撮影したものではない映像を編集する作業は、なかなか難儀だったのでは?
川口:確かに、かなり大変でしたね(笑)。でも、やるしかないと思ったし、やるからには中途半端なものは作りたくなかった。それに、作業を進めていくうちにアナーキーに対する思い入れも生まれてきたし、凄く面白かったですよ。僕よりも若い世代に見せたいというのがこの映画の意義としてあったので、僕みたいに間接的な立場の人間が編集に携わったことが結果的には良かった気もしますね。
──茂さんは、現時点ではまだ川口さんがリミックスした作品をご覧になっていないそうですが(笑)。
仲野:うん。でもさ、印象は余り変わらないと思うよ。撮られてた側から言えば、せいぜい"若かったな"とか"図々しかったな"とか、そんなもんだから。なるべく客観的に見ようとはするんだけど、自分ではなかなかできないもんだよね。ただ、ひとつの作品として面白いなとは思うよ。当時の時代背景ももちろんあるんだけどね。宇崎(竜童)さんと一緒に何であんな事務所みたいな所で話をしてんだ? とかさ(笑)。あんなの、今じゃ有り得ないでしょ?
川口:あれはパンチありましたね(笑)。
仲野:寺岡はやる気ねェしさ(笑)。あの映像はさ、一見生意気そうに映ってるんだけど、みんな宇崎さんに対してちょっとアガってるんだよね。だって、相手はダウン・タウン・ブギウギ・バンドなんだから。でも、言ってることは意外と図々しいし、態度もヒドいもんなんだよ。まだマリが元気だった頃、メンバーがコタツを囲んで話してる映像もあるしさ(笑)。
川口:マリさんが話してる後ろで、茂さんがハナクソをほじっていたりするんですよね(笑)。
仲野:当時は俺、取材がラクだったんだよ。マリが全部喋ってくれて、俺はそれに同調するくらいだったから。でも、あのヤローが元気なくなってきてさ、誰も喋らなくなっちゃったから、仕方なく俺ンとこにお鉢が回ってきたんだよ。それからだよ、俺がスゲェお喋りになっちゃったのは。デビュー当時はメチャメチャ寡黙な青年だったのにさ(笑)。
──凄まじく迫力のある初期の映像を見ると、アナーキーが音楽というよりもある種の社会現象だったことが如実に窺えますよね。
川口:そうですね。僕が親しくさせてもらっているイースタンユースの吉野(寿)さんやスラングのKOさんがアナーキーについて語っているのを聞いて、それだけ凄い衝撃だったんだなと思いましたよ。アナーキーという存在がひとつのビッグバンだったとか、今の自分をこういうふうにしたのはアナーキーだとか。彼らにとってもそれだけ大きなルーツなんだなと思って。
──随所に挟まれる現役のバンドマンの言葉はひとつひとつ興味深いし、アナーキーが如何に突出した存在だったかを浮き彫りにする効果を上げていますね。アナーキーをリアルタイムで体験できなかった若い世代にも訴えかけるものがあると思うし。
川口:みんな二つ返事でインタビューに応えてくれたし、語る言葉も熱いものばかりでしたね。みんな純粋にアナーキーのファンだから僕らの視点に近いし、彼らが語ることによってバンドの全体像が見えるようにしたんです。後半はアナーキーの内側をえぐっていく流れに結果的にはなったかなと。
──バンドマンばかりでなく、中村獅童さんや宮藤官九郎さんといった舞台周りの人たちのインタビューが収録されていることからも、若い世代にはアナーキーの与えた影響がどれだけ広範囲に渡っていたかが理解できるんじゃないでしょうか。
仲野:まァ、獅童もバンドをやってたからね。
川口:宮藤さんも音楽は好きだし、詳しいですしね。
──桑名正博さん、忌野清志郎さんとチャボさんといった大御所のコメントも貴重ですよね。
川口:あれは8mmの『ノット・サティスファイド』の映像ですね。
仲野:RCサクセションのフォーク時代は別として、チャボが入ってからは一応同期っちゃ同期だからさ(笑)。佐野元春も同期だからね。それが今や、片や凄く重厚で、片や未だにアッパラパーだから(笑)。
レコード出したくねェのか、このタコ!
──アナーキーはアマチュア時代をほとんど経験せずに、"East West '79"の決勝大会に出場して茂さんがベスト・ヴォーカリスト賞を受賞して、トントン拍子でビクターからデビューが決まりましたよね。
仲野:当時は何も知らなかったし、知り合いなんていなかったんだよね。どっかのバンドのローディーをやるとか、ライヴハウスでバイトをするとかの発想が一個もなかった。たまたまリハをしてたのがヤマハの池袋東ショップって所で、アマチュア・バンド合戦みたいなのをショップごとでやってたわけ。それに出た時の俺たちのライヴ音源を、ショップの店員が勝手に"East West"へ送ってくれたんだよね。ただ、基本的にショップで2つのバンドしか出られないから、俺たちは一回落っこっちゃうわけだ。それで、「こんなにいいバンドなのに何で落とすんだよ!?」って審査員に文句を言ってさ(笑)。で、俺たちはもう一度エピキュラスでやったブロック大会に出て、決勝に勝ち上がったわけ。あと、『East West '79』のライヴ盤があってさ、そのジャケットにはディスペナルティ時代の氷室(京介)も写ってるんだけど。そのアルバムには1バンドで1曲しか入れられないんだけど、俺たちは1曲の長さが凄く短いじゃん? だから図々しく「分数で分けてくんねェか?」って言ったんだよ(笑)。そこで食い下がって、メドレーっていう形で『シティ・サーファー』と『ノット・サティスファイド』の2曲をゴリ押しで入れさせたんだよね(笑)。
川口:まだ10代の頃ですよね?
仲野:19だね。'79年だから、まだデビューもしてないんだよ。
──"East West '79"の映像も凄まじいテンションで、鬼気迫るものがありますね。
川口:ああ、茂さんがサングラスを掛けてるやつですね。
仲野:あれはぶっちゃけ、まだ恥ずかしかったんだよ(笑)。尚かつ、歌詞を間違えちゃってさ。だから"伸一、助けてくれ!"みたいな顔をしてるんだよな(笑)。
──今みたいにインディペンデントでの活動を経てメジャーに進出するのではなく、アナーキーはごぼう抜きで一気にメジャー・デビューしたのが痛快なんですよね。
川口:それだけ目に付いた存在だったんでしょうね。逆に僕らが好んで聴いていたパンク・バンドは、インディペンデントじゃないと格好悪いみたいな部分もありましたけど。
仲野:まァ、俺たちの前にも東京ロッカーズっていうインディーズ・シーンがあったんだけどね。デビューしてから東京ロッカーズのイヴェントに出たりしたんだけど、客からはブーイングの嵐だったもんね。「オメェら、パンクのくせしてメジャーかよ!?」みたいなさ。"何言ってんだこのヤロー! レコード出したくねェのか、このタコ!"って思ったよ。そんなこと言ったら、ピストルズなんて俺たちの比じゃねェくらいの大メジャーじゃねェか! っていう。EMIを蹴ってヴァージンと契約するわけだから。
川口:判りますね、凄く。今でも、ちょっとメジャーに行くと「もうパンクじゃない」って言われるような風潮がありますから。
仲野:ただ、俺たちはバカだったからさ、インディーとメジャーの違いなんて何にも考えてなかったし、単純にレコードが出せればそれで良かったんだよ。ぶっちゃけ、ビクターでもソニーでもどっちでも良かったしさ。そういうバカな感じが当時の他のバンドと比べて痛快だったとは思うね。インテリジェンス、ゼロみたいなさ。動いてドン、みたいな(笑)。
──でも、映画の中でイースタンユースの吉野さんが「自分たちが普段話しているような言葉を使った日本のバンドがやっと出てきたと思った」と語っていたように、上っ面じゃないリアリティを帯びた言葉だったからこそアナーキーはあれだけ熱烈に支持されたんじゃないですか。
川口:その判りやすさが良かったんだと思うし、それがやっぱりメジャーたる所以のような気がしますね。どれだけ小難しい言葉を格好つけて唄ってみても、音楽自体は格好いいのかもしれないけど、それでメジャーで通用するのかと言えばどうなのかなと思うし。
──ファースト・アルバムが13万枚のセールスを記録したことからも、アナーキーが絶大な支持を得ていたことが判りますよね。
仲野:俺たちはもっと売れると思ったんだよ。5千万枚は行くと思ってたからね、アナーキー・ミーティングでは(笑)。寺岡ン家の団地の一室で「5千万枚も売れちゃったら、印税スゲェんじゃねェの!?」なんて話しながら、自家用ジェット機のデザインなんかしちゃってさ(笑)。団地に滑走路なんてあるわけねェじゃん、って話だけど。そもそも自家用ジェット機を持ってるヤツが団地に住んでるわけねェし(笑)。でも、アルバムが出てオリコンの順位を見に行ったらさ、1位が確か中島みゆきかユーミンで、俺たちは10位以内にも入ってなくてスゲェへこんで帰ってきたんだよね。
川口:どのアルバムもチャート圏内に入らなかったんですか?
仲野:いや、入った。1枚目も結局、90何位とかに入ったんだよ。2枚目も入って、一番ランクが良かったのは『亜無亜危異都市(アナーキーシティ)』かな。10何位、赤丸急上昇って書いてあって、翌月にいなくなってた。それじゃ赤丸急下降じゃねェかよって(笑)。
川口:僕もアナーキーと言えば『亜無亜危異都市』のイメージが強いんですよ。レコード屋でもよく見た記憶があるし。
『亜無亜危異都市』で生まれたメンバー間の溝
──今回の映画でも、その『亜無亜危異都市』がひとつのターニング・ポイントとして描かれていますね。ロンドンへ渡航してレコーディングをして、その時の経験が皮肉にもメンバー間の溝を生むことになるという。
仲野:うん。ロンドンでエンジニアのスティーヴ・ナイとプロデューサーのマイキー・ドレッドと一緒に仕事をした時に、"プロってスゲェな"って思ったわけ。それまではレコーディングのことなんて全然判らなかったし、1枚目の時は『ノット・サティスファイド』を6時間唄いっぱなしだったからね(笑)。何でダビングっていう技を教えねェんだよ、ディレクター! みたいなさ。まァ、ダビングを覚えた2枚目の時は、何でもかんでもダビングっていう感じだったけどね(笑)。
──ロンドンでアルバムを録る意向はメンバーによるものだったんですよね?
仲野:いや、スタッフからの提案。俺たちはロンドンでもマニラでも別に何処でもいいんだよって思ってたから。その当時は直通便がないから、アンカレッジ経由で10何時間だよ? もうなげェなげェ(笑)。しかも、スティーヴとマイキーの仲が余り良くなくてさ。マイキーがプロデューサーだから一番偉いんだけど、エンジニアとしての実績はスティーヴのほうが断然上なわけ。スティーヴはマイキーに対して"フンッ"てなもんでさ。俺たちはそれまでずっとダチと一緒に和気藹々とやってたのに、いきなり凄いプロフェッショナルと仕事をしちゃったわけだよ。スティーヴには「仲良しでやってんじゃねェだろ! 誰のアルバムを作ってんだよ?」って怒られるし、コバンに至っちゃ「心を込めて叩け!」なんて言われるしさ(笑)。
──そのレコーディングを通じて伸一さんと寺岡さんとコバンさんは音楽的な向上心が芽生えて、マリさんはそれに違和感を覚えて行き場をなくしたと映画の中で話してますけど、茂さんの言葉だけがないですよね。茂さん自身は、当時の微妙な変化をどう感じていたんですか。
仲野:『亜無亜危異都市』を作ってる時は、マリの思想みたいなものが入りすぎてたんだよね。右だ、左だ、みたいなさ。それが痛快じゃなくなってきたんじゃないかっていうのはあった。でも、サウンドになったのを自分で聴いたら、それほどイヤな感じはしなかったんだよ。そこが音楽のスゲェとこだなと思うんだけど。ただ、好きじゃない曲もあるね、『亜無亜危異都市』には。でも、俺はホントに何も考えてねェから、"いやァ、こんなの唄っちゃったよ"みたいな感じだったね。入れてから失敗したなとは思ったけど、やっちゃったもんはしょうがねェなって。
川口:『亜無亜危異都市』の頃から分業制になってしまった、みたいなことは仰ってましたよね。
仲野:うん、要するにバンド・スタイルになっちゃったんだよね。それで『READY STEADY GO』からイメージを解体するようになって、国鉄服も脱ぎ出してさ。俺がカテゴライズすると、3枚目までがパンクだよね。ピストルズやクラッシュから受けた衝撃で3枚目までは作れたんだけど、4枚目になるとお里が出てきたんだよ。パンクの前に聴いてたキッスやエアロスミス、ストーンズなんかの色が出てきちゃったんだよね。
──そうした変化にマリさんは付いていけなくなったんでしょうか。
仲野:どうなんだろうね。3枚目まではスポークスマンとしてマリの位置があったんだけど、あるインタビューで凄く思想的なことをマリが言ったんだよ。自分たちの音楽で世直しをするみたいなことを言うもんだから、バカ言ってんじゃねェよ! と。それで俺と揉め出したわけ。そんなことを考えて作ったバンドじゃねェだろう! って。で、マリはへこんできて、3人は3人で音楽的な方向へ行っちゃって、俺は俺で六本木を呑み歩いてばっかでさ(笑)。3人は音楽にハマって、俺は夜の盛り場にハマれたんだけど、マリにはロフトしかなかったんだよ。ロフトにいる面子は限られてるし、キース(ARB)はほとんどロフトに住んでるような状態でさ(笑)。
もう一度1枚目をやるんだったら再々結成してもいい
川口:そうなると、マリさんも煮詰まってきますよね。音楽志向の3人は徐々にプロになっていく一方で。
仲野:バンドの中の話題としても、マリのネタがなくなってくるんだよ。俺なら「昨日六本木で呑んでたら、原田芳雄に会ってさァ」とか、伸一だったら「茂、このアルバム凄くいいから聴けよ」とかネタはいっぱいあるんだけどさ。
川口:大人への過渡期みたいな部分もありますよね。最初はただの不良少年のグループだったのが、個々人がどんどん大人になっていく過程がこの映画には描かれていると思うんです。バンドに限らず、共同で何かを作り上げている人たちなら誰しも共感できるんじゃないですかね。仲間なんだけどみんな一緒じゃないって感じが僕は凄く面白かったし、そこがひとつのドラマになっていると思います。
──親、学校、団地という制約から抜け出せて敵がいなくなって、最後は自分との闘いでしかなくなるという茂さんの言葉も重いですよね。
川口:敵を探すだけになっちゃうとイデオロギーばかりに傾いて頭でっかちになりそうなところを、茂さんはストレートに思うがまま突き進んでいったのが凄いなと思って。
──この映画はアナーキーというひとつのパンク・バンドの軌跡を追ったものではあるけれども、そこにはパンク・ロックが日本に根付いて発展していく過程やパンクの在り方みたいなものも伏線として描かれていると思うんですよ。そうした複合的な物語をも孕んでいると言うか。
川口:そうなんですよね。そういう捉え方でこの映画を見てもらえたら嬉しいです。パンクとは何なのかという問い掛けもそこにはあるかもしれないし。
──そう言えば、アナーキーとTHE ROCK BANDのカタログが紙ジャケで再発されたそうですね。
仲野:俺は音が良くなったとか、そういうのは別にどうでもいいんだよね。自分で言うのも何だけど、俺がヴォーカリストとして素晴らしいのは一個もミュージシャンじゃないからだよね。ロックの格好良さっていうのは、真剣なミュージシャンになることじゃないからね。シド・ヴィシャスがパンクの雄って言われるのは、ベースを弾かないからだもん。スゲェよなって思うよ。だって、絵描きで言えば絵を描かないんだよ? それで巨匠なわけだからね。ひょっとしたらそこがロックの最大の魅力じゃないかと思う時もあるよね。まァ、俺も相変わらずデカい声が出てるうちはやれるかな。これがこまっしゃくれて、上手く唄おうとか思った時が引退の時期かなと思ってるんだよ。もうとっとと引退しろよっていう話だけどさ(笑)。
──今回の映画を見て、アナーキーをもう一度見たいと改めて感じるファンもたくさんいると思うんですが、再々結成の構想はありませんか。
仲野:どうだろうねェ...。『内祝』の時がチャンスだったんだけどね。
──ロフトプラスワンで行なわれた『内祝』の発売記念トーク・ライヴでは5人が勢揃いしましたけどね。
仲野:トークじゃなくてライヴをやれって話だよね。『内祝』のライヴをやれば良かったんだけど、新曲を作れみたいな話になったじゃない? それで1年遅れちゃったんだけどね、詞が書けなくてさ。昔も詞が書けない時はあったけど、バンドがあるうちはまだ未来が見えてたから何とかなったんだよ。でも、『内祝』の時は、アナーキーの未来が見えないのに詞を書くのが地獄だと思ってさ。あれは辛かったね。あとはそうだな、今の5人が1枚目のアルバムと同じレヴェルでいられるのかなっていうところだね。未だに自分の基準にしてるのはあのアルバムなんだよ。どれだけ歳喰っても、あのアルバムと同じレヴェル、もしくはそのちょっと上にいられないとツライよね。だから、もう一度1枚目をやるんだったら俺はやってもいいよ。まァ、再結成した時よりもっとパワー・アップしてやれるかどうかだね。あとは他のメンバーに訊いてくれよ、「やる気あんの?」って(笑)。
ドキュメンタリー映画『アナーキー』
監督:太田達也/リミックス:川口 潤
2008年/日本映画/カラー(一部モノクロ)/ステレオ(一部モノラル)/82分
(C)2008「アナーキー」製作委員会 配給:日本出版販売
*1月16日(金)まで、連日21:10より シアターN渋谷にてレイトショー公開中!
*名古屋シネマテーク:1月31日(土)〜2月6日(金)レイトショー/大阪シネ・ヌーヴォX:1月31日(土)〜上映/京都みなみ会館:上映予定