誰かにどう思われようと自分の好きなように生きていい
社会の中で感じる生きづらさの正体はなんだろうか?
自分は何をしてもダメな人間だ、生まれてこない方がよかった、なんで生きるのがこんなにも痛いんだ、と考えれば考えるほど心の自由が奪われていく。
その答えを求めたところで解決しない問題に苦しめられる日々は、人生の気分転換時であると考えれば聞こえはいい。でも本当は絶望に囚われた破滅思考の感情が心の大部分を占めている。心に巻き付かれた辛さのしがらみが消えてしまえばどれだけ楽なのだろうか。いっそのことすべてを消滅させて私の存在をゼロにしてしまおうか。そんな感情を支配していた私の心は「愛されなくても別に」という作品とのの出会いによって変化していた。
作品の中で語られる登場人物には様々な毒親という「不幸」が付きまとう。家族や愛について世間一般では感動のツールとして用いられる価値が気持ちのいいほど破壊されていく。血のつながりがなくならない限り家族はやめられないのか、愛という言葉がどれだけ自分を縛りつけているのか、そんな描写に心が惹きつけられていた。
もちろんそれは誰もが共有できる不幸ではなく、個としての不幸。その人の環境下でしか理解できない個の不幸が度々現れる。いつしか登場人物たちが抱える「不幸」の間で摩擦が生じる。私の方が不幸だと不幸度を競い合うような滑稽話だと思ってしまうがその上で、私の中の「不幸」と作中に登場する不幸を比較し始める自分の思考にも怖さを覚えてしまう。
そして主人公の宮田は様々な立場の不幸を間近で感じ、自身の「不幸」、母からの愛という暴力を断ち切り、自らの人生を切り開く。
人の不幸なんて誰かにアドバイスされてどうにかなるものでもないし解決するわけでもない。誰かにどう思われようと自分の好きなように生きていい。「愛されなくても別に」
そう背中をやさしく押してくれた気がした。(RuiDarc)