Rooftop ルーフトップ

INTERVIEW

トップインタビュー大川竜弥(32歳・無職)

無職の履歴書

2014.03.19

大川竜弥32歳、無職。この記事のヘッダーの写真に見覚えのあるネットユーザーも多いに違いない。「うわっ...私の年収、低すぎ...?」の人(もしくは「えっ...俺の土地、こんなに高く売れるの...?」の人)である。フリー素材サイト「PAKUTASO/ぱくたそ」のモデルとして活動しながら、各所でトークイベントに出演。また2012年には家入一真の立ち上げた「liverty」において「顔面広告.com」というサービスに参加したことでも、その顔をネット上に拡散させた。と、そんな"日本一顔の知られた無職"である彼は一体、どんな道を歩んできたのか。今回、余りネット上でまとめられたことのない彼の経歴を、駆け足で伺った。無職の人はもちろんのこと、これから社会へ漕ぎ出す学生も、日々仕事に明け暮れる会社員も、必読のインタビューである。(Asagaya/Loft A 前川誠)

目立たなかった高校時代

――まずは学生時代のお話から伺っていきたいんですが、大川さんはどんな高校生活を過ごされましたか?

大川 目立たない学生でした。部活は高校2年の途中から写真部でしたね。

――今はモデルをやられてますが、その頃は写真を撮る方に興味があったんですね。

大川 いや、ただ部長になりたかったんですよ。別に内申のためとかじゃなくて、部長っていう肩書きが良いなって思って。そこで調査したら、当時写真部だけ部長がいなかったんですね。あと、体育祭で部活対抗リレーというのがあったんですけど、そこで文化部が運動部に勝ったら目立つんじゃないかなって思いまして。で、写真部に足の速いやつを何人かひっぱったんですよ。ただ、部活対抗リレーは5人で走るんですけど、結局僕を含めて3人しか足の速いやつが集まらなくて。野球部とかサッカー部とかもいたんですけど、3人目まではダントツでトップだったんです。でも1回目、2回目も走ったやつが4回目、5回目も走ったんで、結果ビリになってしまってその夢は果たせなかったんですけど。そういう、普通な学生でしたね。

rooftopint_okawasan_1.jpg――普通じゃないですよ!

大川 いや、特に目立ってなかったと思いますよ。ヤンキーでもなかったですし、特に勉強を頑張ってた訳でもないですし。

――高校時代の同級生の証言ですと、大川さんは昔から今と変わらずよく分からないことをやっていて、一目置かれる存在だった、というお話なんですが。

大川 どうなんですかね。変な意味で目立ってたのかもしれないです。なぜかヤンキーグループから「大川さん」と呼ばれてましたし。先生にもすごくかわいがって頂いて。一度だけ、放課後学校の校舎に水風船を投げていたら怒られたんですけど、それ以外は特に怒られることもなく。

――水風船!? ……まあ、不良グループとも優等生グループとも仲良くしてらした感じだったんですね。

大川 はい。あと、比較的権力のあるギャルグループとも仲良かったですし、みんなと上手くやってたと思います。

就職、そしてクビ

rooftopint_okawasan_4.jpg――高校卒業後は?

大川 東放学園っていう専門学校の映画製作コースに行ったんですけど、1年で中退しました。

――映像関係の仕事につきたかった?

大川 はい。ずっと映画が好きだったのと、あと脚本を書きたいなと思って。ただ家庭の事情とかで働かないといけないなと思って、その専門学校は1年間で辞めたんですけど。

――そこから大川さんの職業遍歴が始まる訳ですが、最初に就いた職業は?

大川 最初はですね、ユニクロに入ったんですよ。

――おお! あの!

大川 当時はフリースのブームでユニクロがすごく売れていた頃で。もう自分には圧倒的に一般常識がないと思ってたんですよ。だからああいう厳しいところで働けば社会勉強になるんじゃないかなと思って。有名で人がいっぱいいて教育がちゃんとしてそうなところ、という理由でユニクロを選んだんですね。ちょうど僕の家の近くに日本でも売上がトップ5に入るくらいの店舗があったので、そこにアルバイトで入って、途中か準社員みたいな形になって4年間くらいいました。

――やはりお仕事は厳しかったですか?

大川 僕は何とも思わなかったんですけど、周りには厳しいと言って辞めるアルバイトの子達もいましたし、同じような立場で入っても続かない人もいましたね。

――それほど厳しいと感じていなかったのに、なぜ辞められたんですか?

大川 そのお店の入っていたテナントが無くなることになったんです。他のお店のお誘いもあったんですけど、折角なので別のことをやりたいなと。あとインターネット系の人たちがよく言いますけど、これからはITだと僕もなぜか思ったんですよ。

――それが何年くらい?

大川 2004年くらいです。当時パソコンも持ってなかったんですけど、とりあえず(仕事を)探さなくちゃいけないじゃないですか。それでまずはパソコンを買って仕事を探したら、横浜にあるIT系の会社で一社だけ未経験で受けいれてくれるところがあったんですよ。そこに応募して、面接にいったら、未経験とは言えパソコンをある程度使えるかって訊かれるじゃないですか。オフィスとかHTMLとか制作系のこともできるかって訊かれて、もちろん僕はできないんですけど「一通りはできます」って答えて。

――良い話ですね!

大川 それで受かったんですけど、働き始めるまで2週間くらいあったので、その間にワードとかエクセルとかHTMLとかCSSとかはある程度自分なりに本で勉強したら、どうにかなりましたね。そこに1年間くらいいたんですけど、それが唯一の正社員経験です。で、ちょうど1年くらいのときにライブハウスの社長が店長を探しているということで、知り合い経由で話が来て、話を聞いたら面白そうだなと思って転職しました。

――もう「IT」は見離したんですか?

大川 そうではなくて、デザインとかプログラム開発とかを自分がやっても仕方ないなと思ったんですよ。どれだけ頑張ってもスペシャリストには追いつけないし、それより何かあったときにこういう人にお願いできてこういうことができる、っていうのが分かってれば何とかなるんじゃないかと。今思うと全然分かってなかったんですけど、1年働いたらもう下準備というか、土台はできたかなって思っちゃったんですね。次に良い話もあるし、そっちに行こうかなって。

――ライブハウスの店長って、いわゆるブッキングですよね?

大川 そうですね。ブッキングもあれば、お店の管理や経理みたいな仕事もありますし、スタッフの採用とかもありますし。あと親会社が芸能プロダクションをやっていたので、ザ・グレート・サスケさんのマネージャーとか、一時期ブームだったジュニアアイドルのマネージャーとか、まあいろいろと店長と同時並行でやりました。

――そこの会社は何年くらい?

大川 5〜6年ですかね。

――で、そこも辞められる。

大川 そこはですね、クビというか、辞めさせられたという形になりまして。

――何かあったんですか?

大川 そこの会社は変わったシステムのライブハウスだったんです。だいたい雇われ店長って月給制だと思うんですけど、そこの会社では個人事業主みたいな感じでやってまして、固定給以外に自分でブッキングをして出た売上は自分で持っていって良いよっていうシステムだったんですね。例えば、仮に1日10万円でお店を借りて、当日の売上が15万円入ったとしたら、上澄みの5万円は持っていって良いよっていう。

――基本の売上以外はすべて店長のものになると。

大川 店長に限らずブッキングスタッフは全員そういうシステムでやってたんですけど、逆に足りないと自分で補填しなくちゃいけないんですよ。だから上手くいってるとすごく稼げて、僕も一時期は月に数十万円稼いでたんですけど、上手くいってないときはマイナスで。しかも後々それに付随して、会社がやってるレコーディングスタジオの仕事とか、そこらへんも全部同じ仕組みでやるようになって、だんだん追っ付かなくなっていったんですね。

――自腹を切るタイミングが増えたと。

大川 そうです。だから会社に秘密で深夜アルバイトをして足りない分を払ってたんですけど、それが(会社に)バレまして。会社の仕事を優先せずにそういうことをやるとはどういうことだと。と、いうことでクビというか、契約を切られることになりまして。ちょうどその頃、ライブハウスでの深夜勤務とレコーディングスタジオの深夜の管理と深夜のバイトが続いて身体を壊したっていうのもあり、良いタイミングで契約を切られて、今に至るって感じですね。

休刊のおしらせ
ロフトアーカイブス
復刻