トラディショナルを受け継ぎつつも新しい日本の音楽
──今改めて当時の音源を聴くと、曲の良さとミクスチャー・センスの素晴らしさもさることながら、アレンジ能力の高さに惚れ惚れしますね。それもまた音楽の素養がなかったがゆえの自由な発想だったと言えるんじゃないでしょうか。
「素養がないから全部前向きに捉えることができたんですよ。フリー・ジャズの世界ならOKな不協和音的なものも全然アリだったし」
──決してアカデミックでコアな方向へは行かずに、マーチという大衆的な音楽をベースに独自の音楽を発展させていったことも特筆事項だと思うんですよね。
「マーチを選んだ理由っていうのは、スカやパンクといった既存のジャンルに入って表現するより、むしろ世界に誇れる日本のオリジナリティを提示できると思ったからなんです。日本のトラディショナルを引き継ぎつつ、世界中のどこを探してもない音楽をやりたかったんですけど、マーチという世界中のどこにでもある音楽をベースにすることで伝わるものがあるんじゃないかと思って。とにかく自分のやっていたことには絶対的な自信がありましたね」
──『空にはとどろ。号砲の。』の“トラウマ運動会”というコンセプトもデスマーチ艦隊ならではのセンスですしね。その後に『いろいろあるけどラララのラ』で“愛と真実(まこと)”をテーマにするという振り切れ方も実に見事でしたけど(笑)。
「あの頃はちょうど過渡期で、歌詞を書くのに生みの苦労が凄くあったんですよ。それまでは皮肉とレクイエムが大きなテーマで、シリアスな画像を見せて『これを見ながら自分で考えろ』みたいな作風だったんです。それが、感動できるものや気持ちの伝わる画像を見せたいという正反対の表現を求めるようになった。デスマーチ艦隊を作ったのは自己破壊や他人の概念を破壊するのが目的だったけど、メジャー・デビューしてからいろんな人たちが俺たちのために尽力してくれて、これ以上壊しきれないものが出てきたんですよね。そこで破壊よりも物事を積み上げていくことに重きを置くようになったんだけど、『いろいろあるけどラララのラ』みたいな作品を出したことで周りからはブレたように見えたと思うんです。でも、俺としてはあの時期に苦しんだからこそ今があると思っているぐらいなんですよ」
──「こんな時代だから愛の言葉」を作った頃は、破壊から創造へ開眼した時期だったということですか。
「開眼したと言うよりも開眼したいっていう時期ですね。『こんな時代だから愛の言葉』にしても、聴く人に対してと言うよりも自分自身に対して『こんな時代だから言っとくでしょう』って投げかけてる感じなんですよ。『生まれてこのかた』も過渡期ならではの曲で、本来の自分には唄えないことをスモッキンという犬の目を通して唄えてるんです」
──「死刑! 死刑! 死刑!」と絶叫していたバンドが「うたた うたたと夢の中」ですから、随分な軌道修正ですよね(笑)。
「だからそういう意味では、初期の感じのままでデスマーチ艦隊は終わるべきだったのかもしれない。だけど、『いろいろあるけどラララのラ』みたいな作品があったからこそ、今やってる浅草ジンタを世界に向けて発信できているはずなんですよ」
──ガスタンクのトリビュート盤や『ヘブンズ・カーニバル・来・エジャニカ』があって、その後にデスマーチ艦隊としてもうワン・ステップ前進する余力はなかったんですか。
「徳田さんといろいろ話して、次のクリエイティビティに向かう準備もしていたんです。それは日本のフォークソングをベースにした音楽だったんですけど、目指すべき音楽性とデスマーチ艦隊というネーミングにも違和感を覚えてきた頃だったんですよね。他にもいろんな事情が重なって、それで思いきって解散することにして、マッハマーチジャポニカを結成するわけです。それは今の浅草ジンタと似たスタイルで、カンカン帽もかぶっていたんですよ。フォークソングを感じる歌詞を2ビートに乗せて、普通の言葉でリアルに唄うことを1年間ぐらいやっていたんですが、なかなか上手くできなかったんですね。コンセプチュアルな感じが色濃く出てしまって、リアルな言葉が生まれにくかったんです。それでもう一度バンドを解体することにして、デスマーチ艦隊ではやり残したことを全部やることにしたんです。それが百怪の行列の初期なんですよね」
──和尚のキャリアの中で、デスマーチ艦隊としての4年間は暗中模索の時期だったということでしょうか。
「そうですね。テイチクに拾われたから辛うじて生き残れたけど、ずっとインディーズのままだったらとっくに自爆していたかもしれない。ファーストの『魂のしわざか…』でその時点でのバンドのすべてを出し切って、セカンドの『夢で逢いましょう』でファーストでやり切れなかったことを詰め込んで、高速マーチングと言えば運動会だろうっていうコンセプトに基づいて作ったのが丸尾末広さんにジャケットを描いてもらったサードの『空にはとどろ。号砲の。』だったんです。普通アーティストを世間に売り出す時のキャッチコピーって、たとえば『天空から来たクリスタル・ボイス』とか、そういう感じじゃないですか。でも、テイチクが俺らに対して、凄いひどいなーって思うのは『義務教育からやり直しさせます by テイチク』ですからね(笑)。まぁ、今ならそれもよく分かりますよ。だって、当時のテイチクとのミーティングで『まずは服を着てもらえるか?』って散々言われてたんですから(笑)。ライブでは常に上半身裸だったし、下に穿いてた道着も脱いじゃうし、ヤバ丸は最後にもちろんアレも出しちゃうし(笑)。でもしょうがないんですよ、服を着るようになったらライブの動員が減っちゃったんですから(笑)」
──ライブで必ず道着を脱ぎ捨てる行為に辟易したりは?
「俺はもともと飽きやすい性格なんですけど、繰り返すこともまた芸術であるという信条が自分の中にあったんですよ。繰り返すことの中に変化を見いだせなければ表現者じゃないっていう。だからデスマーチ艦隊では何事も堂々と繰り返してやるつもりだったんです。ライブで組体操をやり続けたのも同じ理由で、やっぱり飽きるわけですよ。でもお客さんは『待ってました!』と喜ぶし、飽きてなるものかっていう意識がありましたね」
0.3秒ぐらいの衝動と強烈な自我だけで疾走した
──今の浅草ジンタが提唱・体現しているエジャニカ(日本を始めアジアの土着的なリズムとメロディを採り入れた音楽)というキーワードがデスマーチ艦隊の時代からすでにあったということは、現在に至るまで和尚の志向性は何ら変わっていないということですよね。
「自分のやりたいことは一貫していますね。エジャニカはデスマーチ艦隊として形に残しておきたい純粋な衝動だったんです。それで『ヘブンズ・カーニバル・来・エジャニカ』を自分で企画して、自分でバンドを集めて作ったんですよ。世界に向けてエジャニカを発信するという対外的な作品と言うよりも、同じ日本人に向けて自分たちのオリジナリティに目を向けさせたいという対内的な作品でしたね。当時、日本の有名なロック・アーティストが海外で高い評価を得ているのをでっち上げるような状況があまりに情けなくて、そんなの全然ロックじゃないよなっていう気持ちだったんですよ。外人コンプレックスの中でもがくんじゃなくて、もっとフラットに日本人のオリジナリティを発信したかったし、俺たちはその礎になりたかったんですよ。その礎がなければ、まだ見ぬ景色や新しい表現には出会えないし、俺たちがここで踏ん張らないとダメだ! ぐらいの意識がありましたね」
──和尚の言う“まだ見ぬ景色や新しい表現”は、浅草ジンタで今もずっと試行錯誤していますよね。
「まだまだこれからですけどね。自分たちの持ってる瞬発力、島国特有のメロディの哀愁やロマンチズム、日本人が持ってる勇気…そういう俺たちにしかないスピリッツを伝えるためにもっともっとやらなくちゃいけないと思ってます。アメリカのディズニーランドももちろん楽しいけど、日本の盆踊りだって盆踊りなりの楽しさがあるじゃないですか。そんな思いがある一方、たとえばウチの親でも素直に『いいね』って言えるような音楽をやらなくちゃいけないのは分かってるんです。世代を問わず愛される音楽をね。だから今もまだずっと旅の途中なんですよ」
──ちなみに、6月に初台ザ・ドアーズで行なわれる14年振りのライブでもやっぱり脱ぐんですか?(笑)
「どうなのかなぁ(笑)。その前にまずちゃんと演奏ができるのか? っていう現実的な問題がありますよね。浅草ジンタと並行してやってる月カケルタスでまだデス声が出るのは分かりましたけど。どんな感じのライブにするかはまだ分からないですが、『本来のデスマーチ艦隊はこんな感じだったよ』っていうのを見せたいですね。今で言う氣志團みたいにサービス精神の極北みたいなバンドだったと思うけど、意外と音楽的にはちゃんとしてましたから。パフォーマンスだけではない音楽的な部分を打ち出すっていうのは、最後の武蔵美のライブとかも実はそんな感じだったんですよ。まぁ、そもそもまたデスマーチ艦隊としてライブをやること自体、あり得ないですよね。俺は二度とやらないと思っていたので」
──やはりケロッピーさんに対する手向けの意味が大きいですか。
「メンバーは誰もデスマーチ艦隊を復活させることは考えてなかったから、『またデスマーチ艦隊を見たい』とケロッピーの口から聞いたことはなかったけど、彼女は末期の癌の時も俺のことをずっと気にかけてくれていたんです。だから彼女のためにもやれるだけのことはやりたいですね。最期にメンバーが彼女のもとに集まったのはとても良かったことだと思うし」
──デスマーチ艦隊とは和尚にとってどんなバンドでしたか。
「自分の思うがままに周りを振り回していたバンドですよね。今はちょっと大人になったから、メンバーの意見を受け入れるようになりましたけど。浅草ジンタではそういうメンバー間のいろんな化学変化が起きていて、デスマーチ艦隊みたいに衝動一直線で突っ走るシンプルな在り方ではないんですよ。いろんな人間が絵の具をぶちまけて、その重なり合うキレイな部分をトリミングして構成するのが浅草ジンタ。デスマーチ艦隊は、『俺はこう行くけど、どうする? とにかくやってみろよ! …違う、そうじゃねぇよ! こうやれよ!』って俺が一方的にまくし立てる感じ。その結果、音楽的な学力は著しく低いんだけど、ベクトルは異常に強いんですよ。『毒キノコ会』なんて、何のために作ったのかよく分かりませんからね(笑)。ホントに0.3秒ぐらいの衝動と強烈な自我だけで疾走していたんだと思いますよ」
──デスマーチ艦隊時代の自分自身に対して、今ならどんな声をかけたいですか。
「『あまり調子に乗るなよ!』と『もっと調子に乗れ!』のどっちもかな(笑)。あとは『死ぬなよ!』とか。トラディショナルで新しい音楽を追い求める旅はまだまだこれから続いていくんだから」