'80年代半ばから'90年代初頭にかけてのバンド・ブームの中で"ビート・パンク"と称されて脚光を浴び、THE BLUE HEARTSやJUN SKY WALKER(S)と並んで絶大な支持を誇ったTHE POGOが、解散から15年の歳月を経た今秋、まさかの再結成を果たす。過去に2回、"クソッたれナイトvol.2"('03年5月25日、新宿ロフト:ベースはJUN GRAY、ドラムスは結成時のメンバーだった佐藤シンイチロウ)と"SHINJUKU LOFT 30th ANNIVERSARY"('06年9月8日、新宿ロフト:ベースはJUN GRAY、ドラムスはHERA)で再結成は実現したものの、小河原良太(vo:JIGHEAD)、春日弘(g:MOSQUITO SPIRAL)、塚本研(b:NITROCAB)、塚本純(ds:AS MEIAS)という往時の最強メンバーによる公式の再結成は今回が初めてだ。すべてのきっかけは、彼らをリスペクトする次世代アーティストが一堂に会したトリビュート・アルバム『SEARCH OUT THE JAMS〜THE POGO TRIBUTE ALBUM〜』のため。このインタビューはそのレコ発ライヴに臨む初のリハーサル直前に行なわれた。本誌独占、4人の貴重な肉声をじっくりと読み干して頂きたい。(interview:椎名宗之)
解散以降、ひとりも音楽をやめなかった
──今日が初のリハということなんですが、この4人が揃うのは、それこそ解散以来15年振りとなるわけですか。
研:お互いのライヴの後に呑んだりとかはしてたけどね。
良太:うん。各々で会ってはいたけど、こうやって4人で演奏するのは...もう何年振りになるんだろう?
春日:何せ記憶力が年々衰えてるからね(笑)。
──どんな音になるかは、この取材の後のリハに掛かっていると(笑)。今の率直な気持ちは?
純:まぁ、何とかなるよね?
春日:それぞれ音楽はずっと続けてきたし、多分大丈夫じゃないかな。
純:そう、ひとりも音楽をやめてなかったからね。
──今日に備えて個人練習してみたりとかは?
良太:個人練習しようがないよ。ちょっとは音源を聴いたものの、どの曲をやるのか具体的な話もまだしてないし。今日はとりあえずみんなで会って、ここでいろいろと決めようっていう。だからすべてはこれからだね。
──POGOの音源を改めて聴くのは、やはり気恥ずかしいものですか。
春日:うん、余りに恥ずかしくてすぐにプレーヤーを止めちゃったね(笑)。
良太:と言うか、CD自体が手許になかった(笑)。
研:(CDをかざしながら)この『LAST GIG』は良かったよ。これだけ聴いたんだけど。
良太:みんなそれだけは持ってるんだよな。過去に春日と2回ほどPOGOをやった時にベスト盤を聴いたはずなんだけど、何故か手許にないんだよ。もともとないから誰かにCDを借りて、ライヴが終われば"もうやることもないよな"と思うから返しちゃうんだよね。さっき研とも話してたんだけど、基本的に自分のCDって持ってないんじゃないかな。
純:いや、俺は全部持ってるよ。
良太:そう? 俺はキャプテン時代の音源はまず1枚も持ってないんだよ。今回のトリビュート・アルバムを聴いて、どうしてもオリジナルを聴きたくなった曲があったんだけど、何に入ってたのかも自分じゃ判らない。ISHIKAWA(TIGER HOLE)に訊いたら、それが『PLEASE PLEASE PLEASE』に入ってる「PLEASE PLEASE PLEASE」だったわけ(笑)。で、それも人から借りてやっと聴いた。
──ご当人は意外とそういうものなんですね(笑)。今日は何枚かPOGOのCDを持ってきたんですけど...(と、当時のオリジナル盤や編集盤を差し出す)。
研:うわ、みんな持ってないわ(笑)。
良太:最近、これ(『SEARCH OUT!』)を聴いたんだよ。このアルバムは良かったね(笑)。
研:ああ、『SEARCH OUT!』はいいよね。
純:あと、『COCK AND BULL TUNES』を久し振りに聴いたんだけど、余りに格好良くてハマッたな。
研:『COCK AND BULL TUNES』ってどういうヤツ?
──そんな、まるで他人事のように(笑)。
良太:あれだよ、「ASK FOR NOTHING」とかが入ってるヤツ。
純:バンド名とタイトルがピンクで、鉄条網がバーッと描いてあるジャケット。俺の手描きなんだけど。
研:だって、知らない曲もあるもんね。「TAKE A LOOK!」なんて曲、知ってる?
良太:知ってるよ。さっき聴いてきたから(笑)。凄くいいよ、この曲(笑)。今改めて聴くとさ、結構難しいことをやってるんだよね。春日のギターなんていやらしいくらいに(笑)。あの当時、今みたいにデジタルじゃなくてアナログでよくやってたなと思うよ。
春日:過去の再結成で、自分で自分のギターをコピーしたくらいだからね。"あれ、こんなことやってたんだっけ?"っていう(笑)。
──今回発売となるトリビュート・アルバムは聴きましたか?
良太:もちろん。面子や選曲も意外で面白かったよ。こういうトリビュート盤って、大抵似たような顔触れが集まることが多いじゃない? でも、これだけ多彩な面子がカヴァーしてくれたから純粋に楽しめた。俺達がPOGOを始めた頃はいろんなバンドがゴッチャになってライヴをやってたし、その感覚に近いよね。
春日:俺も選曲は意外だと思ったな。ひねくれ者が結構多いんだなって(笑)。でも、アレンジが新鮮で面白かったよ。
良太:さっきも話した通り、自分でも忘れてる曲がかなりあるし、このアルバムを聴いて思い出した曲もあるからね。意外といい曲だったんだなっていう再発見があったりもしたし。たとえばREDЯUMの「FALLEN ANGEL」なんかは、歌の巧い人が唄うとこんなにステキな曲だったんだな、とかさ(笑)。逆に、FUCK YOU HEROESの「東京XXXX!」を聴いて逆コピーをしたくなったりもしたしね。
純:どのバンドも凄くいいアレンジだよね。原曲がすぐに判らないのがたくさんあったけど(笑)。その意味でも充分に楽しめたと言うか。
研:うん、楽しめるよね。まぁ、俺は知らないバンドが結構いたけどさ。
15年前がつい昨日のことのように感じる
──とりわけ意外に感じたカヴァーや人選は?
良太:曽我部君の「BABY BABY」かな。共通点があったんだなという部分でね。ロリータ18号の「LITTLE BOY」は王道で、オリジナルに忠実にやってくれた感じだね。それとやっぱり、REDЯUMかな。俺は最初、ヴォーカルが男の人だと思ったんだよ。随分とキレイな声を出す人だなって。自分もこんな声を出せたら良かったのになと思った(笑)。このREDЯUMもそうだし、気になってインターネットで検索したバンドが結構いたね。
純:BEEFの「SUCH IS LIFE」は面白くなかった?
良太:ああ、あれも凄く良かった。アレンジ能力が素晴らしいよね。
純:頭で考えたものじゃないんだろうね。バンドでやったらこうなっちゃった、みたいなさ。BEEFとは今やってるバンド(AS MEIAS)で対バンしたことがあって、全然こんな感じじゃなかったから余計に驚いた。
良太:研のヴォーカルと似てるよね? 似てるよねって言い方もおかしいけど(笑)。
純:どのバンドだったかな、良太にそっくりの声をしてるヴォーカルがいたよね?
──THE NOUですかね?
純:そうそう。あの「PLEASE PLEASE PLEASE」は余りに似ててビックリしたな。
──今回は良太さんと春日さんだけではない、ちゃんと純さんと研さんを含めた再結成なわけですから、向き合い方もだいぶ違うと思いますけど。
良太:うーん、どうだろうな。やってみないと判らないところもあるね。単純に楽しみだけどさ。
春日:でも、過去2回の再結成の前に、確か解散して2、3年経った頃にアンチノックで何曲かやったことがあったよね。
良太:あったね。アンチノックのスタッフが俺の誕生日にイヴェントを組んで、その時に純のやってたLEAD SLEDと...JIGHEADも出てたのかな? その辺は覚えてないんだけど、研も当日来て2、3曲やったんだよ。研が当日しか来れないから、ベースレスの3人で練習をやったことは覚えてるんだけど。野方のスタジオでさ。
春日:そうだっけ? その練習は全然覚えてないなぁ...。
良太:やったよ、確かに。そのアンチノックのライヴも別にPOGOの名前を出したわけじゃなくて、ゲストで春日を呼んだセッションみたいなものだったんだけどね。LEAD SLEDで純もいるし、研も遊びに来たから何かやっちゃおうか、みたいなさ。
──解散後も連絡は密に取り合っていたんですか。
良太:そんなに頻繁ではなかったけどね。ただ、それぞれがバンドを続けてたからライヴを見に行ったりはしてたし、研のやってるNITROCABとJIGHEADが対バンすることが最近多かったりもしてね。こうして4人が揃って話をするのはライヴ以上に久々なんだよ。当時も4人でインタビューを受けるなんてほとんどなかったしね。でも、今こうやって話してると、15年前のことがつい昨日のことのように俺は感じる。全然違和感もないし。
──単純に照れくさい部分はありませんか。
良太:それはないかな。前回と前々回で演奏もある程度しっかりやったから、HIGHでやるライヴも何とかなるだろうとは思ってるけど。まぁ、すべてはこれからやるリハ次第かな(笑)。
──見た限り気負いもなさそうですし(笑)、トリビュート盤も楽しめて聴けたということは、みなさんの中でTHE POGOという存在がすでに対象化されているということなんでしょうか。
良太:そうだね。今もいろんな人から「昔、POGOが好きでした」って言われることが多いんだけど、俺以上に周りの人のほうがPOGOについて詳しいくらいだからさ。この間も研のバンドのヴォーカルと凄くマニアックな曲の話になって、歌詞の世界観について訊かれたんだよ。でも、俺は別の曲と勘違いしてて、その曲のタイトルを聞いても思い出せなかったからね(笑)。そういうのが多いよ。
研:そんなもんだよね。俺は「TAKE A LOOK!」を聴いてみたいしさ(笑)。
良太:だからいい曲だって(笑)。まぁ、ライヴでやってない曲は忘れちゃうし、そういうのは結構あるからね。
──春日さんはその辺、記憶力が確かじゃないですか?
春日:いや、結構忘れてるよ。でもだからこそ、久々に弾くと凄く面白い。過去2回の再結成もそうだったしね。
──今回のこの4人による再結成は、あくまで一夜限りのものなんですよね?
良太:別にそういうのは考えなくていいんじゃないの? 毎回やるたびに「今夜限り」って言っても、結局またこうして3回目があるわけだから(笑)。解散したバンドだし、今は各自バンドをやってるわけで継続するつもりはないけど、こういう機会があればまた集まれるわけじゃない? だから余り深く考える必要性もないのかなと思うけどね。俺と春日と純が(研の住む)富山まで行くのもアリだと思うし(笑)。まぁ、機会があればの話だけどね。
ロフトや屋根裏に出るのが憧れだった
──やっぱり当時の記憶はかなり曖昧なんですかね。たとえば、'86年1月10日にロフトで行なわれた『REBEL BRAIN FACTORY』(キャプテンのオムニバス)のレコ発ライヴであるとか。
良太:うーん...そうだね(笑)。ひとつ確かなのは、俺達の初ワンマンはラママの昼の部じゃないってこと。よくそういうふうに書かれてるんだけど。ラママにはイヴェントで相当出たけど、ワンマンはやった覚えがないから。でも、ロフトでワンマンをやった記憶はちゃんとある。あの時は純とシンイチロウと(北島)達夫だったね。[註:本誌のバックナンバーを確認したところ、初のワンマンは'87年7月19日、新宿ロフト。タイトルは"HYSTERIC GENERATION"。ただし、それ以前に'86年9月14日にロフトの昼の部でニューロティカをゲストに迎えて"RADICAL GAME 発売記念LIVE"が行なわれている]
──小滝橋通りにあった頃のロフトで思い出されることは?
良太:ロフトに関してはいっぱいあるよ。研はPOGOに入った頃まだ高校生だったからさ、学校から学生服のままロフトに来て、着替えてステージに出てたりとかね(笑)。
春日:18歳未満はライヴハウスに出入りしちゃいけないんだぞ!(笑)
研:いやぁ...ロフトは全然覚えてないなぁ。俺のライヴ・デビューはラママだったんだよ。それだけは覚えてるけど。
──でも、ロフトやラママに限らず、POGOはいろんな場所でライヴをやっていましたよね。当時のバンド・ブームの隆盛も関係していたんでしょうけど。
良太:そうだね。当時のスタッフが結成当初から最後のライヴまでをほぼ網羅したライヴのデータを残してて、それを自分のホームページに全部アップしようと思ったんだけど、余りに膨大で、途中で面倒くさくなってやめたことがあるから(笑)。学祭にもよく出てたしさ。
──変わった場所でよくやってましたよね。たとえば、浅草常盤座(現・浅草ROX3)の"CHAOSTIC NIGHT"('91年8月)とか。
良太:ああ、それはまだ最近だよね。いや、全然最近じゃねぇか(笑)、後のほうだね。メジャー・デビュー以降だから。
──品川寺田倉庫F号でのワンマン('92年8月)っていうのもレアでしたよね。
良太:あれかな、本編が10曲くらいで、アンコールを20曲くらいやったライヴじゃない?(笑) 終わってそのまま釣りに行ったな、確か。
──メジャー・デビュー前だと、汐留PITの"ROCK FILE '88"('88年6月)とか。
春日:あったねぇ。後でビデオになったヤツだ。俺が加入して間もない頃だね。あとさ、実は俺達、ドーム・アーティストだったから(笑)。ARBやアンジーと一緒に東京ドームでやったことがあるんだよ('90年1月)。
良太:その1週間後くらいに、ストーンズがドームで初来日公演をやったんだよな。ミック・ジャガーもこの楽屋を使うのかな? なんて思ったね(笑)。
春日:あれ、今思えば、ストーンズのライヴに備えた音響のテストで駆り出されたイヴェントだったんじゃないかな?(笑)
良太:ただ、ドームはあるのに、武道館だけはやってないんだよね。渋公とか厚年とか、いろいろとやってたけど。
──インクスティック芝浦ファクトリーでのデビュー・ライヴ・コンヴェンション('89年3月)っていうのもバブリーな時代を象徴していますが、同じ年の10月に行なわれた野音のステージでは"良太、怒りのギター粉砕"と資料にありますけど(笑)。
良太:その前からギターは結構壊してたんだよ。ギターを壊すのが好きで、そのために買ってたようなもんだから(笑)。
春日:若気の至りだね。最初はギターじゃなくてマラカスだったんだけど(笑)。
純:俺が印象深いのは断然初期だね。渋谷の屋根裏でANTIやVID-SEXなんかとやったライヴとかね。俺はあれが最初のライヴだった気がする。あのライヴは今でもはっきりと覚えてるよ。憧れの場所で初めてライヴができたからね。
良太:昔の屋根裏、キャバレーロンドンの上の3階にあった頃だね。
研:俺は屋根裏でやった記憶ないなぁ...。
良太:研はそうかもね。俺達の世代は、新宿ロフトと昔の渋谷屋根裏でライヴをやるのが憧れだったんだよ。メジャー・デビューなんて考えてなくて、それよりもロフトや屋根裏でライヴをやりたいのが先だった。だから俺も、初めてロフトや屋根裏に出させてもらった時は凄く感慨深かったよね。
バンド・ブーム全盛期のメジャー・システム
──あと、純さんのケガで活動を一時休止したり、春日さんの急病でライヴを3人でやったりしたこともありましたよね。
春日:そうそう、俺は肺気胸になっちゃってね(笑)。
研:純君はバイクで事故ったんだよね。
純:そう、それでライヴ・インのライヴを飛ばしたんだよ(笑)。
──デビュー・シングル『BABY BABY/LITTLE BOY』をレコーディングするためにニューヨークへ飛んだというのも、当時の世相を反映していますね。
春日:確かに、アルバムじゃなくてシングルを録るためっていうのが凄いよね。最初、周囲は「LITTLE BOY」で行きたがってたんだよね。妥協案で「BABY BABY」との両A面になったんだけど。
良太:揉めたよね(笑)。「BABY BABY」は昔からやってた曲だったんだけど、音源にはしてなかったんだよ。俺がメジャー用に取っておこうと思ってたんだよね。で、カップリングはインディーの曲を入れてくれって言われて。俺達としては新曲が良かったんだけどさ。
──メジャー進出の重みが余り感じられない今と違って、当時のメジャー・デビューは着実にワン・ステップ上に行く感じでしたよね。
良太:どうかなぁ。今のメジャーがどういうものかよく判らないから何とも言えないけど、俺達の時代よりも自由に活動できてる気がするよ。当時のバンド・ブームの洗礼を受けた世代が今はメジャーでディレクターとかをやってるから、今のほうが発想はバンド寄りじゃないかな。俺達がメジャーにいた頃はバンドよりも会社の意向が優先だったから。PVも撮るには撮ったけど、現場じゃどんな仕上がりになるのかも判らずに、ただ言われるがままに演技してたしね。
──メジャーでの制約はやっぱり多かったんですか。
良太:まぁ、俺達も若かったし、経験値も低かったからさ、調子に乗っちゃう部分もあっただろうし。でもやっぱり相手は大人だから、子供の言うことは適当に聞いておいて流す感じだったよね、今思えばだけど。お互いに利用したりされたりする感じだったとは思うけどね。
──ちなみに、初のテレビ出演は『ミュージックステーション』だったんですね('89年6月)。
良太:うん。テレビは結構出てたんだよ。
春日:『夜のヒットスタジオ』とかね。NHKのオーディションもちゃんと受けたし(笑)。ああいうの、今もあるのかな? オーディションを受けないと、NHKには一切出られなかったんだよ。
良太:4人で突っ立って口パクでやるか、俺だけが唄うかっていうオーディションでね。で、バンドの演奏ができないなら、せめて歌だけは唄わせてもらわないと...ってことで、凄くヘンな雰囲気の中で唄わされたんだよ。粗品でベルトを貰った覚えがあるけど(笑)。
──いわゆるキャンペーンもやったんですか。
良太:やったよ。徳間ジャパンは演歌が強い会社だったから特にそういうのが徹底してて、よく俺が行かされてたね。地方でやってる演歌の番組とか料理番組に出たこともあるし(笑)。「せっかくだから出演しませんか?」って言われると断れないから(笑)。
──バンドらしい自由な活動は、やっぱりキャプテン時代のほうができましたか。
良太:でも、キャプテンはインディーっていうよりもメジャーに近かったからね。もちろん自由にやらせてもらったけどさ。メジャーの話はもっと早くからあったと思うけど、そういうのは当時の事務所に任せてたから。それよりも俺達はライヴハウスでの活動にずっと重きを置いてたし。
──『1990』で音楽評論家の鳥井賀句さんをプロデューサーに迎えたのは?
良太:賀句さんがINUのプロデューサーをやってたり、賀句さんの書く文章をよく読んでたからね。俺自身、プロデューサーという存在にずっと懐疑的だったんだけど、賀句さんなら自分達の資質を理解してもらえると思って指名したんだよ。
──『SEARCH OUT!』のプロデューサーは、元サンハウスの奈良敏博さんでしたね。
良太:奈良さんはプロデューサーっていうよりも、いい遊び相手だったね(笑)。
研:ダジャレが強烈だった記憶しかないなぁ...(笑)。
良太:はははは。まぁ、具体的なアドバイスはほとんどない代わりに、心のケアをしてくれたって言うか。「良太、疲れてるな? サウナでも行こうか、奢るから」って(笑)。楽しいレコーディングだったよ。
春日:俺は基本的にレコーディングが好きだったね。時間も掛けられたし、実験的なこともできて勉強になったから。環境は恵まれてたよね。温泉のあるスタジオも使えたしさ(笑)。
良太:時間も1ヶ月くらい掛けられたしね。2日間で17曲くらい録る今に比べたら何て贅沢なことか(笑)。俺は一発録りが好きだからパンチ・インとかは余りやりたくなかったけど、春日はそういうのが好きだったよね。
今もまだ終わってない感覚がある
──しかし、あれだけ精力的にライヴを続けながらも良質な作品をコンスタントに発表していたわけで、当時のPOGOが凄まじいポテンシャルを秘めていたのを痛感しますね。
良太:どうなんだろうね。それが当たり前だったから当時は何とも思わなかったよ。曲作りの苦労もなくはなかったけどさ。中期から後期にかけて春日や研が曲を作ってきても、俺だけはどうしてもネタに詰まってたからね。
春日:曲作りのために合宿にも行ったよね。
良太:行ったね、河口湖。『1990』の時は、文章のプロである賀句さんに歌詞に関する難しい話をいろいろと聞かせてもらったけど。『1990』は背伸びしたかったんだと思うよ。曲自体はいいんだけど、いろんなことに手を出しすぎたって言うかさ。『SEARCH OUT!』みたいにアルバム全体としていいものもあるし、凄く曲はいいんだけどアルバム全体としては今ひとつのものもあるよね。中には締切に追われて数合わせ的に作った曲もあったしさ(笑)。でも、そういう曲が今聴くと意外に良かったりする。まぁ、恥ずかしい曲もたくさんあるけどね(笑)。
──今聴いても素直にいいと思える曲は?
良太:どうかなぁ...アルバムを録った状況にもよるからね。やる気がなかった時も正直あったから(笑)。今聴くと、『SEARCH OUT!』って俺のノドが相当潰れてるんだよね。かなり限界のところで声を出してるんだけど、それを含めていいと思える。初期のキャプテン時代は、若いからこれ以上声が出ないってところまで唄ってるしね。まぁ、俺の歌云々よりも、POGOはとにかくテクニックが凄かったよ。これは自慢なんだけど、POGOってバンドは今聴いてもホントに演奏が巧い。中期以降はアレンジを3人に任せて、俺は練習に行かなかったからね(笑)。
研:『LAST GIG』を聴いて思ったけど、やっぱり演奏が巧いよ、この2人(春日、純)は。ホントに凄いことをやってたんだなと思った。俺なんて演奏は二の次で、パワーを放出することばかり考えてたから(笑)。
純:俺、研のベースは日本のベーシストの中で一番好きだけどな。
良太:研も抜群に巧いよ。あと、POGOはルックスも良かったね、俺以外は(笑)。3人とも背がデカいし、見栄えの格好良さは大事だったよね。
──今振り返ると、POGOのメンバーだった時期は皆さんにとってどんなものでしたか。
研:難しい質問だなぁ...。まぁ、自分の音楽をやるための成長期間って言うか、今やってるNITROCABの母みたいな感じなのかな。
純:今の自分があるのは間違いなくPOGOでの活動があったからだし、やっぱり自分自身が形成されたバンドなんだろうね。その時々でただひたすら一生懸命にやってきたから、ひとつの言葉で言い表すのは難しいけどね。
春日:俺は、POGOに加入したのと地元の仙台から出てきて東京で独り暮らしを始めたのが同時期だったわけ。高円寺の風呂なし四畳半から始まってさ(笑)。そういう部分も含めて懐かしいものだね。電車に乗って吉祥寺のリハに行ったり、ライヴの打ち上げに出てみたり、やることすべてが新鮮だったよ。
良太:一番多感な時期だったし、青春と言えば青春だよね。でもこうしてトリビュート盤が出たり、当時の話をしてると、今もまだ終わってない感覚もあるね。きっとこの先もずっと「POGOやってましたよね?」って言われるんだろうしさ(笑)。それはもう宿命なんだと思うよ。
──今回のトリビュート盤を聴いた人達が、またオリジナルに興味を示してくれれば嬉しいですね。
良太:そうだよね。POGOのCDが今は全部廃盤なのが惜しいよ。いつかこの4人の今の観点でチョイスしたベスト盤を作れるといいよね。俺自身、このトリビュートを聴いてオリジナルを聴いてみたくなったから。って、まるで他人事みたいだけどさ(笑)。