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INTERVIEW

トップインタビュー【復刻インタビュー】田村英章(2007年6月号)- Rooftop レコーディング・エンジニア列伝 其ノ壱 田村英章(STUDIO FREIHEIT)

Rooftop レコーディング・エンジニア列伝 其ノ壱 田村英章(STUDIO FREIHEIT)

2007.06.01

本誌の読者にはインディーズ時代の怒髪天の一連の作品でご存知の方も多いだろう、インディペンデント・レーベル"フライハイト"。同レーベルが所有するスタジオのハウス・エンジニアとして、これまでにTHE COLTS、人間椅子、怒髪天、デーモン小暮閣下、ロットングラフティー、HEATWAVE、Naht、fOUL、BAKI、The STRUMMERS、犬神サーカス団など錚々たるアーティストのレコーディングを手掛けているのが本稿の主役、田村英章さんだ。20年近くにわたり第一線で活躍し続けている田村さんに、レコーディング・エンジニアを志した経緯から仕事に対する矜持までを訊いてみた。(interview:椎名宗之

その瞬間だけのサウンドを捉えることの面白さ

──レコーディング・エンジニアに興味を持ったきっかけは?

田村:高校の時に当時の洋楽にどっぷりとハマりまして、『ベストヒットUSA』とか『ポッパーズMTV』なんかを好きでよく見たり聴いたりしていたんです。でも、エンジニアという職業があることを知ったのは、実は甲斐バンドだったんですよ(笑)。彼らの“ニューヨーク3部作”と呼ばれる作品(『虜 -TORIKO-』『GOLD』『ラヴ・マイナス・ゼロ』)のミックスをボブ・クリアマウンテンという世界に名だたるエンジニアが手掛けていて、レコード制作の裏方にそういう職業があるんだとそこで初めて知ったんです。他にも、ストーンズの『刺青の男』やブルース・スプリングスティーンの『ボーン・イン・ザ・USA』、ブライアン・アダムスの『レックレス』といった当時自分が好きだったアルバムのクレジットにも彼の名前を見つけて、どんな職業なんだろうと徐々に興味を持ち始めたんですよね。

──バンドはやっていたんですか?

田村:全然。もっぱら純リスナーの音楽ファンで、どちらかと言えばオーディオ・マニアだったのかな。僕は広島の片田舎に住んでいたし、当時は今みたいに音楽系の専門学校がたくさんあったわけじゃないから、情報収集が大変でしたよ。たまにマンガ雑誌とかに、今は無き青山レコーディングスクールの広告が載っているのを見かけた程度で。で、高校を卒業した後に蒲田にある日本工学院専門学校の音響芸術科に入学しまして。ちょうどデジタルの24チャンネルが出始めの頃だったんですけど、学校にあったのはひと昔前のアナログの機材だったんです。今と違って、僕らの時代はレコーディングの現場と授業の間にギャップがあったんですよ。それに、そういう機材を直に触れられる実習は週に1回だけで、あとはひたすら専門知識を学ぶばかりでしたね。だから、専門学校を卒業して現場に入って、そこで役に立ったことはほとんどなかったんですよ(笑)。

──では、'90年に山中湖にあるEGGS&SHEP Studio(当時)に入社して以降、日々の実践から学んでいった感じですか?

田村:ええ。学んでいくしかなかった、と言ったほうが正しいかもしれないですね。今の専門学校はカリキュラムも充実しているだろうから、そんなこともないでしょうけど。EGGSの前に、同じ山中湖にあるミュージックインで働いてたんです。「給料は少ないけど、リゾートのスタジオなら住み込みもさせてもらえるし、食事にもありつけるよ」と、ある会社の面接官に紹介されまして。もちろん最初は雑用ばかりだったんですけど、そこは半年でクビになったんです(笑)。

──あらら。なんでまた?

田村:散々ヘマをやらかしてしまいましてね。夕食の買い出しに行った時に車を谷に落としちゃったり、高いマイクを壊してしまったり(笑)。それで、当時できたばかりのEGGSを紹介してもらったんです。EGGSも人手が足りなくて、即採用してもらえたからラッキーでしたよね。

──そのEGGS&SHEP Studioから、田村さんの実質的なエンジニア人生が始まるわけですね。

田村:そうなんですけど、最初の3、4年間はずっとアシスタントだったんですよ。雑用から始まって、テレコ回しとかまで。そのアシスタント時代に最初に仕事をしたのがグレイトリッチーズで、『BRAND NEW EXTASY』('91年3月発表)というアルバムでした。当時はバンド・ブームの終わりかけで、時代的にもバブルが終わる頃。スタジオに来ていたのはバンドが圧倒的に多くて、デビュー前のブランキー・ジェット・シティとかもいましたね。

──完全に独り立ちしてからの初仕事は覚えていますか?

田村:もうバンド名は忘れちゃったんですけど…何かのオムニバスの1曲だったんですよ。2日間で初日は録り、2日目はミックス。その時は凄く緊張しましたけど、確か大きな問題は起きなかったんです。でも、今思うとミックスの時は訳が判らなかったはずですよ。それからいろんなセッションに参加して、見よう見まねでノウハウを蓄積していって、その瞬間だけのいいサウンドをパッケージにして捉えることの面白さも徐々に知るようになって。その瞬間に居合わせられる幸せは何物にも代え難いですよ。それがこの仕事の一番面白いところかな、と。あとは、仕上げた作品をリスナーに聴いてもらって「いいですね、あのアルバム」と言われた時の快感かな。そこに世間の評価が伴えば言うことなしですね。

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スタジオ・フライハイトにしか録れない音がある

──8年間のEGGS時代でとりわけ印象深い仕事というのは?

田村:やっぱり、フライハイトに入るきっかけにもなったコルツや人間椅子ですかね。コルツなら『LIFE IS A CIRCUS~ザ・コルツの人生はサーカス』('95年9月発表)、『IT'S ONLY ENTERTAINMENT~ザ・コルツの人生はエンターテイメント』('96年3月発表)、『CHEAPSKATES』('96年10月発表)、人間椅子なら『踊る一寸法師』('95年12月発表)といったフライハイト・レーベルの初期の作品ですよね。僕自身、ハード・ロックやヘヴィ・メタルも結構好きだったので、人間椅子は割と入っていきやすかったですね。それに比べると、コルツはそれまでに聴いたこともない感じがあって、凄く新鮮でしたよね。

──そして、現在も在籍するスタジオ・フライハイト設立にあたって'98年に上京、入社となるわけですね。

田村:そうですね。EGGS時代に関わりのあったボス(ミュージックチェイス代表の岩井周三氏)がスタジオを作るということで、プロトゥールス以外の、スタジオで使うマイクやキューボックスといった音響機器を考えてくれと依頼を受けまして。その時ボスに言われたのが、「バンドがスタジオに来て、“せーの”で録れる必要最低限の機材を揃えたい」と。インプットの数も今は24あるんですけど、最初は最低限の16から始まったんですよ。'98年の4月にスタジオが完成したので、この9年の間に随分と機材も充実しましたね。

──僕の個人的な意見で言うと、フライハイトでの田村ワークスと言えばやはり、活動を再開して以降の怒髪天の一連の作品という印象が強いんですよ。'99年に復活して以降の楽曲をまとめた『D-stance“FREIHEIT YEARS 1999-2004”』というタイトルのベスト・アルバムもあるくらいですし。

田村:そうですね、付き合いも長いですからね。EGGS時代、彼らがクラウンからメジャー・デビューを果たした時に初めて会ったんです。その時は一緒の仕事に就かなかったんですけど、上田ケンジさんがプロデュースした『COME INTO THE WORLD』('93年8月発表)というオムニバスに怒髪天が参加していて(「ショートホープ(短かった希望)」「世間知らずにささやかな拍手を…」「友として」の3曲を収録)、それはちょっとやらせて頂いたんですよ。僕は『痛快!ビッグハート維新'95』の頃は全然知らないんですけど、復活後の怒りマキシの時は6年振りに再会して、全然変わってないんだなぁって思いましたよ(笑)。

──怒髪天の“FREIHEIT YEARS”で田村さん自身が気に入っている作品は?

田村:うーん、やっぱり『如月ニーチェ』('01年2月発表)とか『武蔵野犬式』('02年6月発表)になるのかなぁ…。どれかを選ぶのは難しいですね、余り過去の作品を振り返ることもないですから。過去に関わった作品を聴くと、どうしても自分で粗を探してしまいますからね(苦笑)。

──フライハイト・レーベル以外の田村ワークスで僕が印象深いのは、fOULのマキシ・シングル『ブックシェルフ 1F』('00年4月発表)なんですよね。「向こう三年の通暁者」「打ち出の小槌」「終わりの始め」という無敵の楽曲が収録された大名盤で。

田村:そう言って頂けるのは有難いですね。有難いけど、当時はfOULの音楽性の何たるかをよく判ってなかったと思いますよ(笑)。でも、そのよく判ってなかったところが逆に良かったのかもしれない。そういうのってありますよね。妙な先入観みたいなものがなかったからこそ功を奏したというか。fOULはその後、『スペースシャワー列伝~宴~』('02年4月発表)というオムニバスに入ってる「氷の山」という曲もやらせて頂きましたけどね。

──田村さんのエンジニアとしての基本スタンスは、バンドからの要望に真摯に応えるというものですよね。

田村:そうですね。そのための労力は惜しみませんよ。その瞬間のいい音を逃さないというエンジニアとしての自負はありますけど、それ以前にまずスタジオで快適に作業をして頂けるように気遣いもしていますし。機材のスペック的には何ら問題のないものが揃っていますし、ウチにはウチでしか録れないドラムの音があると思ってるんです。タイトなんだけど、詰まってなくて抜けがいいって言うのかな。自分で言うのも何ですけど、リズム録りには持ってこいのスタジオだと思いますよ。モニターも聴きやすいと思うし。スタジオで“いいのが録れた!”と思って、家に持ち帰って聴き返してみたら違和感があったという話をよく聞きますけど、ウチはそういうのは少ないはずですよ。いろんな電源であったり、ケーブルであったり、細かいところで凄くマニアックにこだわってますからね。

──スタジオ・フライハイトを利用したバンドマンからの反応は?

田村:「ドラムの音がいいね」とはよく言われますね。メイン・スタジオは約25畳でバンド全体の同時録音が可能だし、音の立ち上がりはストレスなくダイレクトな音が録れると思います。それもこのスタジオの大きな特徴のひとつですね。

──では最後に、このインタビューを読んでスタジオ・フライハイトと田村さんの仕事に興味を持った方にメッセージを。

田村:レコーディングが初めてでどうしたらいいのか判らないという方の相談にも乗れるので、気軽に連絡して頂ければと思いますね。もちろん、すでに何枚もアルバムを制作しているキャリアのあるバンドの方もいろんな部分で協力できるはずなので、是非ご一報頂ければと思います。

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