HOME>歴史の証言>長戸芳郎


ビリーヴ・イン・マジック 長戸芳郎

ロフト=ティンパンアレイ功績の、秘密はここにあった!

西荻や、下北、新宿にも行ってたけど、ほとんど荻窪の話になっちゃいますよ、僕がブッキングやってたんですよ。スケジュール表も毎月僕が作ってて、印刷機を借りてね。

なんで荻窪ロフトに関わりを持ったかっていうと「風都市」っていう、ハッピーエンドとか、吉田美奈子とか、はちみつぱいの事務所があって、そこに僕がシュガーベイブを連れて入って。「風都市」が潰れちゃって、同じ頃に「如月ミュージックファミリー」って事務所があって、そこではフォーク系のアーティストのマネージメントをしてて。海援隊とか、斉藤哲夫とかね。そこに柏原卓って人間がいたんですよ。柏原卓と、僕と、前田祥丈、この3人で「テイク・ワン」って事務所を作ったんですよ。その頃に荻窪ロフトができて、柏原卓が平野悠さんと知り合いでね。荻窪のスピーカーシステムとかの相談を受けてたのがきっかけ。ああいう規模のライブハウスってあんまりなかったからね。PAもしっかりしてるし、けっこう驚いた。こりゃすごい、なにかおもしろい事ができるんじゃないかな、って。

で、「テイク・ワン」でしばらくブッキングをやることになったんですよ。たまたま僕がティンパンアレイ関係をやってて、鈴木慶一とか、はちみつぱいとか仲よかったんで、1か月のスケジュールの中に、ティンパンアレイ・セッションズ3daysとか、そういう企画を入れるようになったんです。そういう連中が気軽にセッションする場があんまりなかったんですよ。ロフトには自由に気楽にできる雰囲気はあったんじゃないかな。

シュガーとかティンパン系やる時は、地上の入口の所にずーっと列が出来てね。すごい盛り上がりでしたね。搬出、搬入は大変だったけどね。民家と民家の間の路地みたいな所にあって、楽器車も近くに停められないし。けっこう苦労も多かったけど、それだけ、やりがいがあったというか。

坂本龍一に出会ったのも荻窪ロフトなの。なんかちょっとヒッピー崩れみたいな感じでうろうろしてて。最初から親近感があって2人でよく飲んだりしてた。僕が山下達郎に紹介したんだ。あの頃西荻かなんかに住んでたんじゃないかな、坂本は。夜な夜な現れて。

で、平野悠さんもうろうろ(笑)。 お店には毎日来て、ミュージシャンと色々話したり。リラックスしてできる環境を、悠さんなんかが気遣ってやってたんだと思うけど。

平野さん、僕の事けっこうかってくれてたからね。期待に応えられるように、いいアーティストを入れてたつもりなんだけど。なんかね、非常にファミリーっていうかね、夜中遅くなったら平野さん家に泊めてもらったりとか。そういうこともあって。きっとね、この時代っていうのは、お店もそうだし、マネージメントやってる僕らもどっちかっていうとアマチュアだったし。まだ手探りの時代。新宿ロフトだと、レコード会社の思惑とかね、売り出すためのステップとして新宿ロフトを利用しようとか、そういう考え方も多いと思うの。荻窪、西荻の出来た頃っていうのは、もっと自然発生的な、商売抜きにしておもしろい事をやりたいという。今そういう事を望むのはちょっと難しい。ビジネスって割り切ってやってる部分があるのかもしれない。だから、ちょっとおもしろくないのかもわからないな。

西荻のロフトでね、たまたまなんであの日集まったのかわかんないんだけど、さっき言った前田と、僕と、桑名正博と、鈴木茂と、で、ライブやったっていう(笑)。 なんでそういうことになったのかも全く覚えてないんだけど、そういう事が起こり得た、場所だったし、時代だった。